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01.12
Sat
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富士山の残照 2019年1月8日写す
老人の思い出にも似る。ひと時美しく輝きしだいに消えて行く。

桂馬はトイレに急いだ。後ろ手にドアのノブを思いっきり引いた。パタン!大きな音に瞬間ビックっと肩があがった。
パタパタ、足音が聞こえる。ドアの大きな音を聞きつけた孫の愛(ちか)の足音だった。「アレッ?これ何?お母さん来て!」桂馬は漏らしてしまったのだ。用が済んだら拭き取らなくてはと思っていたが愛に見つかってしまったのだ。
用は済んだがトイレから出るかどうか桂馬は迷った。朝子が慌てて駆けつけるだろう。鉢合わせするのはバツが悪い。
朝子の気配がした。朝子が始末するまで時間が掛かるだろう。桂馬は覚悟を決めてそっとドアを開けた。
「おかあさあん、こっち、こっち、あっちにも」愛(ちか)が指さした。朝子は膝をつき右手に雑巾を持ち床を見渡していた。
桂馬は忍び足で朝子の後ろを部屋に向かった。「ふっふっふ」桂馬の気配に朝子が床を見回しながら笑った。
朝子は母親似で優しい子だ、桂馬の粗相程度で怒る筈はない、がなんとも極まり悪い。桂馬のソソウの水滴は桂馬の部屋のドア近くまで点々と続いていた。
「かの血を探へ化生のものを退治仕ろうずるにて候」桂馬の気配に朝子がおどけ調子に小声で謡った。
謡曲「土蜘蛛」の一節だった。謡曲は能のセリフだ、独特の節をつけて謡う。俗に“謡い”といわれている。
「急いで退治、仕まつり候へ」桂馬は小声で応じ急いで部屋のドアを閉めた。

能の「土蜘蛛」は病床の源頼光を襲った土蜘蛛の妖怪を頼光が刀で切り付け、家来達が土蜘蛛の血の跡をたどり蜘蛛の妖怪の巣に辿り着き、退治するという話で人気の活劇の能だ。
謡曲は桂馬の若い時からの趣味だった。桂馬は幼い朝子を能の公演や桂馬の趣味の謡曲の会に連れて行った。
家でも謡曲の一節を冗談に使った。朝子もいつの間にか諳んじるようになった。

桂馬は飲みかけのお茶の道具や読みかけの本が乱雑に散らばった自分の部屋の机の前にガラス窓を睨んで座り込んだ。どうしたのだろう、今まで1、2滴はこぼしたことはあったがこれ程派手にこぼしたことは初めてだ。
「あいつ等が云ってたのはこの事だろう」年に数回催される郷里のクラス会での話題が甦った。「マア、女房はしかめっ面するが人間の身に起こる自然の摂理だから仕方がない、だが頻尿は辛いよナ。そのうえ残尿感が嫌だ。我慢すると洩れて気持ちが悪いし、冬の寒い夜は辛いよね。この間ネ、女房の奴が紙パンツを買って来たんだ、思わず馬鹿にすんなって怒鳴ったんだ。だがよくよく考えるとそろそろ男の自尊心もおしまいだよナ。女房に八つ当たりしても仕方がない。ま、唯一の楽しみ、酒でも飲んで待つしかないか、だがこの頃、酒もあまり飲めなくなった」「何を待つンだ?」「それを云っちゃあおしまいだ」爆笑が湧いた。
白髪が増え、シワが増えハゲが目立つようになるにつれ話題は体の具合や医者の話が話題の中心になって行く。これらの人達の訃報が聞こえ初め、親睦会も間遠になった。世間への扉がすこしずつ閉ざせていく疎外感が事ある毎に迫った。

桂馬は退職してからしばらくして家でくつろぐ時は和服を着ることにした。寝間着もパジャマから浴衣に変えた。締め付けるゴムが解放感を阻害したし、浴衣は突然に身体が要求する排泄にも簡単に応じられるからでもある。
朝子はこのところ桂馬の家に来ることが増えた。顔を合わせるなり大げさなリボンの付いた包みをいきなり差し出した。「ハイ、お祝い」悪戯っぽい笑みを浮かべた朝子の顔を見つめ受け取る手はためらっていた。「何の?」「1ランク上の大人になったお祝い」「1ランク上の役立たず爺の?」「お父さん、自分を卑下してはいけません。お能ではお爺さんやお婆さんは尊敬の対象でしょう。今でも“敬老の日”って祝日があるじゃあない」「昔の人は短命、長生きが人生最大の夢だったンだ。今は建前。内心は邪魔者」「そんなこと云わないで!少なくとも私はお父さんに何時までも元気でいて欲しいンだから」

正札にクラシックパンツと書いてあった。フンドシだった。桂馬の異変に気が付いたのだろう。このところトイレに駆け込むことが多くなったしトイレのドアは開けっ放しだった。クラシックパンツは普通のパンツのゴムのような締め付け感はないが、穿いてみたがどうにも心許なく不安だった。だが馴れると爽やかだった。馴れは恐ろしいナ、人の人生を変えるナなどと呟き苦笑したりした。
浴衣にはゆったりと解放感がある。永年、身体を締め付ける洋服に馴れた生活だったが浴衣の解放感を覚えるとパンツまでおさらば、ますますクラシックパンツに執着した。クラシックパンツの生地は薄い、漏らしてしまえば蜘蛛の血は床に直行だった。
桂馬は子供の頃から和服に郷愁のような憧れのようなものを持ってる。
塩竃の母は着物姿が多かった。母がたまに着る洋服は似合わないと桂馬は思った。
父も帰宅後は和服でくつろいだ。父の背広を片付け、着物に着替える父を手伝う割烹着姿
の母の面影が今でも目に懐かしくちらつくことがある。桂馬が和服に執着していく要因の一つだったのかも知れない。

「やはり例の紙パンツを穿かなきゃダメかナ、土蜘蛛の血は突然ではないのかもしれない。朝子がアメリカに発つまでは気を付けないとナ」桂馬の不安は高まっていく気配だった。近々朝子はニューヨークに転勤になった夫の許に行くことになっている。朝子はニューヨーク行きを迷っていた。桂馬を一人で置いて行くのを躊躇ったからだ。桂馬は同じ年代の人に比べ生気があり健康そうに見える。桂馬は常づね、オレは幼い頃から海や川で泳ぎまわり、野山を駆け回っていたンだ。早池峰には6歳の時登ってお神楽を見たンだ、だから医者に縁がないンだなどと自慢した。朝子も父の健康を信じていたが人には信じられないことが起こる。健康でも年という事実が恐い。朝子の迷いだった。
だが桂馬の説得「人生には誰しもチャンスが巡ってくる。それを物にするかしないかはその人の器量による。外国の異文化に浸って生活体験をする、子にとっても親にとってもこれほどのチャンスはない、何を置いても行かなきゃあ、それに会社が金を出してくれるンだ、こんなチャンスはないだろう」朝子は桂馬の熱心な説得にニューヨーク行を決心した。
朝子にとってプライオリティーは桂馬、その次がニューヨークだったのだ、また同じ粗相を見つかったら朝子はニューヨーク行を止めるだろう。肉親が近くにいない淋しさを予想しない訳ではない。殊に今朝のような土蜘蛛血事件が起こった後はじわじわと不安のようなものが忍び寄って来るだろう。だが朝子の幸せが第一、夫婦子供が別居生活では不自然だ。それも自分のせいとなるのが許せないのだ。

桂馬の部屋のドアが開いた。「お父さん、どうしたの?いつもの元気、見えないナ」「そんなことないよ」桂馬は庭の一点を見つめたまま朝子に振り向きもしなかった。朝子は桂馬の横に座り桂馬の顔を覗き込み、「土蜘蛛の血、気にしてるンでしょう」妻の温子の仕草だと桂馬は思った。桂馬の顔が少し弛んだように朝子は思ったのだろう、「土蜘蛛の血なんて大したことないわよ。トイレから出て手を洗わないでお母さんに見つかって、、、お父さん、こう云ったわよネ。生きとし生けるものの長、人間様の身体から出たばかりの物体だ。不浄の訳なかろう。不浄は人が不浄にするンだ、手を洗わずに病気になったり死んだりした人は聞いた事がない」「お母さん、名言って手を叩いて大笑いしたじゃない。元気だして、お父さん」朝子は立ち上がりドアの前で桂馬をふり返り、「そうだ、お父さん。鶴さんとの思い出の鎌倉、行って来たら。元気、出るわよ」
“鶴”と聞いた桂馬は唖然と朝子を見つめた。鶴は聞くだけで桂馬にはインパクトだ。それに久しく聞かなかったのだ。
そう古くはない一時期、桂馬は酔って帰ると陽気に鶴との思い出話をした。朝子は苦笑いをして聞いていたが、度重なるにつれ、鶴が結婚前の桂馬の妻つまり朝子の母、温子の呼び名だったと朝子は気づいたのだろう催促しながら聞くようになった。そのお惚気もこのところ遠のいていた。桂馬は朝子の真意を探るかのように朝子を見つめた。朝子は笑みを残してドアを静かに閉めて出て行った。

鎌倉の思い出はあまりにも時間の段差が大きい、殊にここ数年、時間は希薄だ。思い出の軽重の順に希薄の時間の中に吸い取られ消えて行く。
朝子にはどんな思い出を話したのだろうか、この頃思い出は他の思い出とこんがらがっていることが多々ある。朝子に話したという鎌倉の思い出話は希薄で繋がりに自信がない。
町内会のバス旅行に付き合いで行って、数回訪れた地でも「へえ、こんな所だった?」と不審することや故郷の人達との思い出話でも桂馬の思い出とまるで違うことが多く愕然とすることが多い。
桂馬は思い出を回想する度に理想の物語を創作して付け加え、それが事実だと信じているのかも知れない。小町通りの雑踏と横丁の赤ちょうちん、某寺の竹林の中の茶屋、明治の元勲の別荘跡のレストランで飲んだ身に余る高級ワイン、江ノ電構内で食べたコロッケ、疲れたとしゃがみ込んだ温子をおんぶした由比ガ浜、あれは嘘でオレを騙したンだった、オレは怒ったふりして温子を放り投げ逃げる温子を追っかけた、靴が脱げても構わず必死で逃げる温子、あれもみな創作だろうか。
鶴は桂馬の生涯唯一の女だったし鶴との思い出は無二の物なのだ、付け加えた思い出でもいいのだ。
鎌倉に行って何かを見て、思い出がことごとく打ち砕かれたらどうしよう。
色々な想いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。桂馬は気が抜けたように立ち上がった。行ってみるかどうするか決めかねたまま。



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09.16
Sat
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町の残照 (武蔵野市境南町5丁目付近 2017年9月12日写す)

砂内桂馬は世にいう後期高齢者に近い。だが自分を老人と意識したことはなかった。
老人の日にお婆さん二人が市からのお祝いを持ってきたことがあった。
「おめでとうございます。市からのお祝いです」
「家には老人はおりません。もらえません」
すんなりと出てきた。作意はなかった。
「あらまあ、御冗談を」
二人はお祝いのお菓子だろう、紙箱を桂馬に突き出し遠慮なしに笑いながら隣の家へ向かった。
こんな事もあった。
テレビで後期高齢者の制度ができたと報じられた。インタビューに老人は、
「ゼニカネ云々ではない。名前を付けて区別するのが癪に障るのだ。まるで、お前たちは役立たずの老人なのだよと言わんばかりだ。差別だよ」
桂馬は自分には縁遠いものの様に、ただ漠然と見ていた。
そのうち自分の身にも来るのだなど思いも及ばなかったのだ。

その朝、桂馬は起きて来なかった。
目は覚めているのだが呪詛にかかったように体が動かない。動こうという云う意思が湧いてこない。ただの物体のように横たわっていた。
間を置いて場所も時も分からない景色や唄の一節や人の顔が断続して、何の脈絡もなく浮かんでは消え消えては浮かんだ。わずかの感慨も感動もなかった。
これまでの桂馬は前の日に疲れて今日はゆっくり遅くまで寝るぞと思っていても意志とは無関係に起き上がり何かを始める質だった。
ドアが開いて娘の朝子が声をかけた。
「どうしたの?お父さん、具合でも悪いの?」
朝子は父が常にじっと落ち着いていることが出来ない性格であることをよく知っていた。

朝子は子供二人と里帰りしていた。夫の俊輔がニューヨークに単身で赴任していて子供達の夏休みが終わる頃を見計らってニューヨークに行くことになっていた。
しばらく同居して父親の様子を見ておきたかったのだろう。夫、俊輔のニューヨーク勤務は六年ほどの予定だ。
朝子はニューヨーク行を迷った。娘達の外国生活も不安だったが、一人の生活に馴れつつあると云っても父、桂馬を残して行くのは心配だった。
ニューヨーク行きは桂馬が熱心に勧めた。
「子供たちには外国で生活するなんてチャンスだよ。普通の家庭ではできないことだ。それに会社が金を払ってくれるンだ」
「わかるけどお父さん、行っても大丈夫?心配だナ。一人でちゃんとやっていける?東京には何かあった時、助けてくれる身寄りがいないのよ」
朝子は一応桂馬に念は押したが安心感はあった。

桂馬が子供の頃の通信簿に、独立心が強いとあった。人に頼ることを避ける性格を先生は見ていた。人に頼り過ぎると煩はしい問題を引き起こし、お互いの不幸の種になる、幼い経験ながらもその危惧が芽生えていたのだろう。
無意識のうちに他の人にもそうあって欲しいと願っていたのかもしれない。
桂馬は会社を引退する間際に妻の温子に卒業証書を渡した。引退を機に家事一切の義務から解放し自分を大切に生きてほしいと書いた卒業証書だった。
家庭を築き子育が終わったのを機に、できる範囲でそれぞれの自分に立ち返ろうという趣旨だった。桂馬の独立心からだろう。
卒業証書を渡したことは独立心だけではない。桂馬が育った家庭の事情もあった。桂馬は世の夫のように、妻は夫の従属物だとは思っていない。
幼い頃、母を見続けて自ら学んだのだ。母は幼い桂馬にも分かる苦しみを抱いていた。
母の苦しみは年齢とともに諦めになり、悟りとなり鬱々と見えた母の顔が穏やかになって行った。この母の悟りに似た穏やかな顔を見る度に反って幼い頃の想いが蘇り胸が痛たんだ。そうした母への想いはいつしか温子に向けられていた。

母が桂馬と姉の曜子のために書いた童話を桂馬は大切にしていた。
桂馬が幼い頃、友達が東京の洋菓子屋で美味しい菓子を食べたと自慢した。桂馬は母に菓子を食べたいとせがんだ。母は桂馬に洋菓子を諦める童話を書いた。
母の童話に感じ入ったのだろう温子は娘、朝子のためにと童話を書き始めた。
温子は筆が停滞すると桂馬に助けを求めた。桂馬は物を書く事に心得がある訳ではないが、ダイビングの好きな友人に誘われて行った南の島、サイパンやパラオの話、例えば三日月の欠けた部分が見えた話などをした。温子の目が輝いた。
「そうよネ、環境が大事よネ。お母さんは日本一の塩釜の景色を常に見ていて豊かな心で書いたのでしょうネ、羨ましいナ。だって東京は毎日が慌ただしい景色だもの」似たような言葉が温子の口癖になった。

温子に渡した卒業証書はタンポポの絵で縁どられていた。朝子が書いたのだ。
「タンポポのようにいつまでもニコニコ、優しい綺麗なお母さんでいてほしいから」
朝子の言葉を桂馬は忘れなかった。
朝子の云うようにいつまでも純粋に外観ではない、きれいな温子でいて欲しかった。

その頃桂馬は、危うかった子会社の経営を立て直すためにして出向していた。目途が立ったと確信し安心したのだろう、
「ここらで引退しようかな」冗談だったがその気持ちもない訳ではなかった。桂馬は将来、暮らしていける経済的な目途が立ったら定年を待たず退職して自分の時間を持つことが夢だったし、体力のあるうちに早めに温子を開放してやりたいと常々思っていた。
温子は大喜びだった。
「うれしい。南の島に連れて行って」
だが気持ちとは裏腹に経済的に家を守る義務感から抜け出すことが出来なかった。
「何とかなるわよ」
温子の説得に耳を貸さなかった。
ある朝、温子が首筋を押さえて桂馬に見せに来た。
「見て見て、イボ!」
「ま、いいかイボくらい。私も年ですものネ」
桂馬は温子のイボを指で撫で、定年前の退職、卒業証書を出すことを決心した。

退職後、温子に家事を細かに習った。桂馬は器用な質だ。新婚の時からちょっとした家事、料理や洗濯も手伝った事が役立った。煩雑な家事も難なく覚えた。
試しに温子に大宰府の実家に行ってもらい、一人生活体験をしたかともあった。
今一人の生活でも不自由は少ない。
ここ数年こうした父の姿を朝子は見て来た。近所の老人達を見ると、人の老化は兆しが見え始まると早い。一抹の不安はあったが老いには個人差が大きい。桂馬に老の兆しは薄いと朝子は思っている。朝子のニューヨーク行を決心させた大きな要因であった。
 
朝子の声に桂馬はゆっくり半身を起こし一点を見つめた。
40年近く務めた会社の人達は勿論、小学生以来の友達や、世の中に関心を抱き始めた故郷の高校時代の友人たちの会、例えば花見の会などを律儀に勤めて来た。これ等の会もここ5,6年前から徐々に立ち消えになって行った。世の中がだんだん狭くなって行き、閉塞感を徐々に感ずるようになった。律儀に付き合って来た人達だが、親近感も段々と遠のいていた。どうしてこの人たちの顔が浮かぶのだろう。桂馬は顔を左右に振り浮かんだ顔を振り払い、温子の顔を浮かべた。温子との思い出をあれこれと思い浮かべ辿った。

「そうだ。渋谷へ行こう」
桂馬は弾かれたように着替えを始めた。何ものかが力の源を注入したかのように力んで。
朝の支度をしている朝子の背に、
「渋谷へ行って来る」
「えっ渋谷?こんなに早くに?何しに?」
「人に会う約束、忘れてたンだ」
「ご飯は」
「うん、いらない」
「どなた?お友達?」
「うん、鶴」
「ふ~ン。お目出度い名前そうね。鶴太郎とか鶴次郎とか鶴之介とか?」
「まアね」
朝子は包丁の手を止め、
「え、鶴?」
朝子は首を傾げた。父と母が知り合った頃、父が亀、母は鶴と呼び合っていたと朝子は聞いたことがあった。朝子は自分の思い過ごしと思ったのだろう、それほど詮索する様子もなく笑いながら
「行ってらっしゃい、鶴さんによろしく」笑いながら振り返った。
桂馬の返事はなかった。右手に折り畳みの傘を握っていた。

桂馬は道玄坂の横断歩道の前に佇み向かいのビルの二階の喫茶店を見上げていた。
桂馬の両肩を擦りながら人が渡っていく。
桂馬が目指す喫茶店だった。喫茶店の外観は昔のままだと桂馬は思った。
桂馬は喫茶店を凝視しながら横断歩道を渡りかけた。
“キーッ” 脳を押し潰すような音に、桂馬の足は電源を切られたロボットのようにぎこちなく止まった。桂馬の顔は音の方向にねじ向けられた。オートバイのブレーキだった。
男がヘルメットを片手に、サングラスを脱ぎながら近づいてくる。
「ご老人、赤信号でお渡りになってはアカんでござるヨ。ながーく持ち堪えなければならない尊いお命ですからね」
男は半身に桂馬の顔を見、ニヤリと笑い踵を返した。桂馬は男がオートバイに跨りエンジン音を響かすまで棒立ちになっていた。我に返った瞬間、
「ばかやろう」
男の背中に怒鳴った。下から熱い塊が突き抜け全身がふるえ自分でも驚く罵声だった。
桂馬は人にあからさまに馬鹿にしたような、老人呼ばわりされた記憶がこれまでになかった。
桂馬は男がオートバイの轟音を響かせ去って行った方向を見続けていた。信号は数回変わった。横断歩道を渡る人の足音に引きずられるように桂馬は渡った。
オートバイの男の言葉使いや態度の残像を抱きながら喫茶店の階段を上がった。
横断歩道を見下ろす窓際に腰を落とした。ゆるやかな坂の道玄坂を見るともなく見下ろした。間断なく車が走り間遠の信号を待ち、人の固まりが横切る。オートバイの男の残像は薄くなっていったが「ご老人」の男の言葉の棘は刺さったまま消えなかった。
桂馬は男の言葉の棘を振り払わなければならない、今日は温子の思い出に会いにきたのだ、焦りは続いた。
「いらっしゃいませ、何にいたしましょう」
ウエイトレスの声が助けた。桂馬はコーヒーとモンブランを頼んだ。

あの時も同じ席だった。温子はモンブランを頼んだ。好物だと云った。コーヒーカップの受け皿にモンブランを取り分け、
「ハイどうぞ」悪戯っぽく微笑み桂馬を見上げた。
「僕は甘いもの、苦手なんだ」
「そうですよね、森田さんから聞いたわ。でもモンブランは他のお菓子と違うの。甘味ではなく風味を味わって下さい」
「私はモンブランが大好きです。モンブランは父の味です。私の父は寡黙の人で私達にもあまり話しないの。ちょっと離れた感じ。でも時々要点だけ話すの。優しさがこもっているンです。大げさだけど父が雪を頂いた峻嶮な山、モンブランのように思えるの。山のモンブランは写真で見るだけでも何かを語りかけて来るような山よね」
「そう。では食べよう。食べて霊峰モンブランにあやかろう」桂馬は温子の父を思い描き半分のモンブランを見つめた。今日の温子は饒舌だと思った。温子の顔が眩しかった。

温子は母に呼ばれて郷里の博多から帰ったばかりだった。縁談だった。相手は父の友人の国会議員の後継者だった。母は将来、何の苦労もない議員夫人だと熱心に薦めた。温子は男を異性として意識することが薄かった。母の突然の勧めに戸惑った。親戚同然の付き合いの議員家のことも考え温子の心は揺れた。
「一生は自分のものだ、それだけ考えて結論すればいい」父の一言は温子の雑念を熊手の如く一つ残さず掻きとった。
温子は雑談調で要点だけを話した。
「あら、ごめんなさい。こんな話、するつもりなかったのに。モンブランのせいよね。食べましょう」
桂馬は温子を台湾料理の店、麗郷に誘った。温子の話の続きを引き出したかった。
温子は暖簾のようにぶら下がったソーセージに驚いた。桂馬の期待はよそに温子の話はソーセージをきっかけに博多の屋台や天満宮門前の土産物屋の話に途切れがなかった。
桂馬は温子の楽しげな話に相槌を打ちながら生ビール二杯と紹興酒一杯を飲んだ。
店を出ると予報どうり雨だった。短い冬の日は暮れかかり薄暗かった。桂馬は物を持ち歩くのを嫌った。たぶん雨になるだろうと思ったが傘は面倒だった。
「相合傘でいきましょう」温子が折り畳みの傘をさしかけた。二人は百軒店の坂に通ずる坂を登った。百軒店の奥に名曲喫茶のライオンがある。学生時代にアルバイト先で知り合った友人と時々行った。桂馬はクラシック音楽が好きというわけではなかったが店の雰囲気が気にいっていた。桂馬は温子をライオンに誘う積りだった。辺りの雰囲気はその頃のままだった。
桂馬が立ち止まった。右側の路地にラブホテルの艶めかしい明りが並んでいた。
桂馬が指をさした。
「あれ何だか分かる?」温子が振り向いて顔をそむけ
「そのくらいは私だって分かります」
「行ってみる?」
一瞬、温子の鋭い目が桂馬の顔を射た。少女の風貌を残す温子の顔が、恐ろしいほどに変わった。温子は急にうつむき、
「馬鹿にしないでください」
つぶやき坂を駆け下りて行った。傘が雨に濡れて黒ずんだコンクリートの階段を2,3段転がり落ちた。
桂馬は温子の姿が麗郷の角に消えるまで立ち尽くした。
「冗談に云ったのに」

桂馬が勤めを退いてから久しい。
働いていた頃は勿論だが、仕事を退いてもしばらくは嬉しい事、悲しい事、腹の立つこと、ときめくことなどは続いた。
年を追うごとに人との交わりが薄くなって行き今では皆無に近い。物事に対する感性も薄らいでいく。起伏の無い時間は平たく白い布のように伸びて行く。
桂馬は過去に我が身に起こった人の世の起伏の思い出を思い出すままに、白布の上に描いて生きて行くのだろうか。桂馬ははっきり意識してこう思う訳ではない、時おり漠然と浮かぶのだ。

桂馬は温子との思い出の坂を登った。昼間のラブホテル街は煤けて見えた。
百軒店の路地の奥の名曲喫茶、ライオンをふり返り見つめた。
「寄ってみてもつまらないナ」
俯き地面を見ながら百軒店の凸凹に擦り切れた煉瓦道をゆっくり下りた。手にした折り畳みの傘を見た。傘は色褪せていた。
疎らに行き交う人も両側の店も桂馬とは無縁のように色も見えず音も聞こえなかった。
立ち止まり、俺は何をしている?桂馬はニヤリと笑ったが何の意味も感慨も全くなかった。

つづく

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11.05
Sat
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人々の暮らしの営みの上に映える残照。
東京都三鷹市、太宰治も愛したという三鷹操車場に架かる陸橋から。2016年10月15日写す。

次第
能楽に「次第」というのがあるという。七五調基準の3句からなり情緒ある節で謡われる。
物語を要約的、暗示的、象徴的に語るという。いわゆる「ブロローグ」の類いだが次第は遥かな昔、中世の日本人が作った。

次第
砂内桂馬。団塊の世代。世にあった時は去って遥か。今は無為の時を過ごす。感動も感傷も衰えてしまった。だが時折、風の音、木々の揺らぎなどの自然現象や人の笑い声、怒声などに桂馬の心は反応して徐々に膨らみ思い出につながっていく。
鳥が梅の木の枝にとまった。枝が揺れる。桂馬はガラス窓越しに鳥を見つめる。遠くから耳鳴りのように人の声が聞こえる。「尾長だよ」聞き覚えのある声だった。声の主の後ろに隠れるようにお下げ髪の少女のような風貌を残す女性が桂馬を凝視している、、、桂馬の思い出が広がって行く。
それは残照だった。しばらく華やかに輝き静かに消えて行く。

前回までのあらすじ
桂馬は北国の塩釜で生まれ育った。桂馬は幼い時から女性に対する警戒感を持っていた。母に教えられたのだと桂馬は思っている。桂馬に姉がいる。桂馬の祖母が桂馬の母に、訳は聞かずに育ててほしいと連れて来た。母は姉の出自を詮索し悩んだ様だった。一年後、祖母は姉の出生を母に話そうとしただ母は断った。理由は分からない。悩んだ末の決断だったのだろう。姉が母の子ではないことを桂馬は薄々感じていた。姉の煩悶が伝わったからだ。だが桂馬は母に聞くことはなかった。母は姉を桂馬よりも気を使って育てた。桂馬はその母の姿を見て育った。桂馬の性格は親子の血もあろうが、母の姿から作り上げたものが少なからずあると桂馬は思っている。桂馬は東京の大学を出、就職した。
桂馬と五代温子の出会いは劇的だった。桂馬と性格の全く違う磊落な温子に桂馬は惹かれて行く。「ままごと」と称して土、日曜を温子の部屋で過ごすことになったのも温子の提案だった。男の下半身は理性とは関係ないのだ、何時獣になるか分からないと桂馬は温子に冗談まじりに云った。桂馬の性格を知っている温子は、いつ獣になるの?とからかった。桂馬は勿体ないから今は止めて置くと云った。ある夜、他愛ない切っ掛けから桂馬が獣になった。温子は必死に抵抗した。温子の涙を見て桂馬は我に返った。落ち込む桂馬に、心の準備もなかったし、抵抗するのは女の本能、嫌だからではないと桂馬を慰めた。
 叔父の忠告もあり桂馬は温子と結婚することを決意する。温子の両親の許しを貰うため温子の故郷、大宰府へ向かう。桂馬の両親と姉も挨拶にと大宰府に行くことになった。

残照
初めて乗る新幹線は魔法の列車だった。京都を三時過ぎに出発して九時前にはもう博多駅に着いた。車窓から見る景色は仙台へ向かう列車の景色とは違っていた。もの珍しがり屋の桂馬を楽しませたが時々不安が頭を持ち上げた。「温子さんをください。それだけでいいのよ」、温子は云うが、桂馬は混乱した。桂馬の神経の細さを温子は思いやってか、いつもよりも饒舌だった。
「二回目に亀しゃんと高尾で会ったとき、魂が空の彼方に飛んで行ったナ、でもあれは神様のお引き合わせよネ」
「二回目ではないよ、初めてだろう?どうして驚いたの?」
「いいえ二回目です。この間、告白したわよ。一回目は中央線の中。亀しゃん眠りコケて持ってた聖書落として、私が拾ってあげたのよ。亀しゃん、薄目を開けてコクッと頭を動かしただけ、変なクリスチャンと思った」
「え?聖書?そうだった?あの頃は何でも興味があったからナ」
「今も、でしょう?あの時の格好忘れられないナ。ちゃんとしたスーツにネクタイ、黒の靴、それだけだったらどう見ても真面目なサラリーマン。ところが女の入浴用の網キャップに長い髪を押し込んでた。それが私の好奇心を刺激したのよネ。正体を突き止めてやろうと新宿で降りた亀しゃんの後をつけたのよ。スリル、満点だったナ。どうしてあんな冒険をしたのか永遠の謎と思ったけど、今にして思えば神様が二人を結びつけたのよネ。アーラッキー」
「ところで森田さん、会社で一緒だったそうだけど親しいお付き合いだったのよネ」
「そう。会社は官公庁の仕事もしていてね、森田さん営業だったから監査の時、準備を手伝ったんだ。仕事帰りに吉祥寺のハーモニカ横丁で飲んだり、三鷹駅南口のオココ屋で飲んだり」
「オココ屋?それって何?」
「三河屋っていう酒屋の立ち飲み。向かいに惣菜屋があってね、その店で漬物を買って、酒屋のサバの缶詰が肴だった。タクアンなどの漬物を江戸言葉でオココって呼ぶんだ。三河屋がオココ屋になったわけだ。森田さんは生粋の江戸っ子なんだよ。オココ屋って命名なんざ~江戸っ子の粋なんだぜイ」
「フッフッフ。亀しゃんも江戸っ子になったの?ところで高尾で会った時、喪服を着てたわよね。会社の人の一周忌だとか云ってた」
「そう。よく覚えてるね。森田さんもよく知っている卜部っていう人の一周忌。彼は飛びっきりの腕を持った職人だった。何事にも積極的でネ、仏教に興味を持って、通信教育で僧籍をものにしたンだ。八王子の自宅を勧善院と名づけてお寺にした。修験道にも興味を持って不動明王を勧請してネ、開眼式に呼ばれこともあった。僕の尊敬する人の一人だよ。彼を見て、人生とは何だろう、僕は一体何を考え勉強してきたのだろう。僕の大学は職業訓練所だったのかとつくづく思った」

桂馬の不安が和らいだと安心したのだろう、車窓の景色が暮れて行くにつれて温子は桂馬の肩に寄り添い、寝てしまった。桂馬の不安はまた徐々に膨らんでいった。

羽田からの飛行機便だった両親と姉は駅前のホテルにすでに着いていた。
「塩釜の寿司は日本一だと思っていたが、福岡空港で食べた福岡の寿司も負けず劣らず美味かった。東西両横綱だ」塩釜の地魚に馴れていた父は有明海や玄界灘の魚介が珍しくて美味かったと云った。姉が旅行カバンの中のものを丁寧に出しながら、
「お父さんがネ、桂馬にも食べさせたいナっていうから、二人前買ってきたの。食べて」
二人は車中のお喋りで、夕食も食べそこねていた。空腹にはいっそう美味しかった。
「明日、両親と相談して頃合いを見計らってお迎えに参ります。桂馬さんは家に泊まって下さればいいんですけど。恥ずかしいでしょう?」桂馬の性格を家族は熟知なのだ、三人顔を見合わせてニヤリと笑い姉が、
「桂馬、久し振りでお父さんとベッドを並べるのが楽しみよネ?」

翌朝、家族四人はホテルの朝食のテーブルを囲んだ。姉曜子が嫁ぎ、桂馬が東京に出てから家族四人だけで食卓を囲むことはなかったのだ。父も母も姉もこの時を噛み締めているに違いない。これだけでも充分だ、博多までやってきた甲斐がある。桂馬は突き上げて来る思いを飲み込んだ。
食事を終えたのは十時前だった。話題も尽き、所在がなかった。温子が何時もの目ざとさで桂馬たちを見つけて手を振りながら近寄ってきた。
「天神さんにご案内したいと思います。お昼ごろまで天神さんにお参りして、近くの行きつけのお店で私の両親に会って頂きますが如何でしょうか?」
「嬉しいわ。天神様にお参りするの楽しみにしてた、温子さんありがとう」姉の曜子の目が輝いた。

塩釜神社よりは大きい神社だろうとは想像していたが、門前の賑わいに驚いた。
土産物の店が軒を連ね、塩釜神社にはない賑わいだった。塩釜神社は陸奥國一の宮だが静かな佇まいだ。店も買い物客も静かだ。九州の人と東北の人達の気質の違いを見るようだった。
「すみません、少し待ててください。あのお店のおかみさんとお友達なんです。桂馬さんを自慢してきます」呆気に取られている桂馬の父母と姉を参道の真ん中に置いて、温子は目を剥く桂馬の手を引いて店に向かった。
店先からおかみさんの賑やかな笑い声が聞こえて来た。桂馬の父母や姉にとっては珍しく意外な光景だったが、辺りの賑わいに溶け込み自然にさえ見えた。
塩釜の周りの人には見ない磊落な屈託のない明るい温子の姿を始めて見て三人は安堵の色を見せた。
「お参りしましょう」温子が指さす参道の奥に大鳥居が見えた。
珍しくも、しおらしく両手を合わせていた桂馬が両親と姉に、
「悪いが此処で、三人で見物していてくれないか、やはり彼女の両親に挨拶して来る」
「ああ、その方がいい。こちらは心配いらないよ。色々のお宮をお参りしていれば二、三時間はかかるだろう、行っておいで。温子さん頼みます」父の言葉に優しさがこもっていた。温子は迷ったが、思いつめたような桂馬を見て桂馬に従った。温子は地図を曜子に示しながら、
「それではお言葉に甘えて。このお店が私の両親にお会いして頂くお店です。二時間以内にはきっとこちらに行きます」

温子の実家は大宰府最寄りの駅の一つ二つほど手前駅の駅裏だった。隣はクスノ木の大木が数本茂った広々とした公園、反対隣は電車の保線資材の置き場だった。広い敷地に枕木や古い線路、砂利などがうず高く積まれていた。後援も資材置き場も、温子の家との境界の垣根らしきものはなかった。晴れ渡った空の彼方に、遠く山並みが霞んでいた。解放感溢れた所で温子は育ったのだと桂馬は思った。
突然の二人の出現に両親は慌てた様だった。通された部屋の床の間に老夫婦が落ち葉を掃いている「高砂」の掛け軸が掛かっていた。正月やお祝い事に、あちこちでよく見る掛け軸だったが桂馬には新鮮に見えた。自分たちのために掛けたのだろう。
お茶を運んできた温子の母が、掛け軸を凝視する桂馬に、
「お父さんがね、どこからか借りて来たんです。何時もは天神さんの宮司さんの書ですけどね」
温子の父が着物を改めて桂馬の前に座った。温子の母がお茶を勧め、
「気の利いたお菓子も用意できませんでしたがどうぞお一つ」温子が緊張の面持ちの桂馬の横に座った。空気が垂直に逆立った。桂馬は深々と頭を下げたが言葉が出なかった。空気はますます張り詰め、時間が凝縮した。
「桂馬さん、よろしく頼みます」温子の父は頭を下げた。
「そうだ、ご両親が店に着く前に行って、いろいろ相談しなくては。お前達は後からゆっくり来なさい、桂馬さんを案内して」そそくさと出て行った。
「お父さん」温子の呼び掛けに振り返った温子の父の顔には緊張が残っていた。
「桂馬さん、ごめんなさい。長い間、一緒に暮らしているとお父さんのこと、何でも分かるんです。実直な桂馬さんを信頼しているのです。桂馬さん温子をよろしく頼みます、お父さんの体がそう云ってました。不束な娘をよろしくお願いします」
「フッフッ、前から思ってたけど、お父さんと桂馬さん、そっくり。照れ屋さん。照れくさくて居たたまれなかったのよ」
酒の席では気質の東西は無かった。さほど口にしない酒だったが女性軍も和んだ。桂馬だけが酔えなかった。

翌日、桂馬の父は福岡空港へ、母と姉は鹿児島行の列車に乗った。温子はもう一日と懇願する母を説き伏せ、昼過ぎの新幹線を予約した。緊張続きの桂馬が心配だったのだ。
桂馬は車窓から海を見るのが好きらしかった。福岡から門司までは左側が海だが海が見えるのは僅か、門司を過ぎ本州に入ると右側が海だ。福岡の工業地帯、関門トンネル、瀬戸内海のうみ、刻々と変わる景色に時々桂馬は「うん、うん」とうなずいた。温子は桂馬に声を掛けなかった。桂馬の緊張を沿線の景色が徐々に吸い取っていくように思えたからだ。
「鶴さん、どうしたの?いやに大人しいじゃないか。もうすぐ尾道。懐かしいな」
「えっ、懐かしい?来たことあるの?」
「いや、ない。林芙美子が住んでた町だから。僕は林芙美子が好きなんだ。赤貧の中、仲間の男などに媚びを売ってまで“放浪記”を書いたそうだ。昨日話した卜部さんを思い出すよ」桂馬は目的のためには、どんな犠牲も厭わず我武者羅に突き進む人が好きなのだ。自分には出来ないから、憧れなんだと桂馬は云った。
温子は桂馬が元の桂馬を取り戻したようで嬉しかった。
「それではこれからの予定を発表します。え~新横浜で下車します。横須賀線に乗り換え鎌倉に行きます」
「エ、鎌倉?何しに?僕は早く帰って寝たいよ」
「いいえ、我儘は許されません。亀しゃんの慰労会をいたします。会場は駅からタクシーで五分。フレンチレストランです。今夜は駅前のホテルに宿泊いたします。いずれも予約済みです」
「え、フランス料理?洋食は苦手だナ~。ナイフとフォーク、面倒だし。どうしてフランス?」
「この度は記念すべき日々でした。それにふさわしいお祝いを、相応しい場所で二人きりで致します。フッフッフ。実を云うとネ、前から好きな人が出来たら連れて来ようと、たくらんでた所なの。奥さんに、お友達とのお食事会に連れてきて頂いたレストラン。素敵なお店よ。」
「奥さんって、鶴さんが秘書してた議員の奥さん?」「そうで~す」

レストランはその昔、名のある政治家か財界人の別荘だったのだろう。車寄せのある玄関、広い洋風の庭がきれいなレストランだった。
「日本人だから日本人らしく食べればいいのよ。無理に、下手にナイフ、フォークを使って食べても折角の料理の味が半減よネ」温子が箸を注文した。ウエイトレスは愛想よく、心得顔だった。
異国風の雰囲気に、桂馬は少し気おくれした。ビールの味までが違っていた。通りがかりのウエイトレスに「ドイツのビール?」と聞いた。「いいえ、日本ビールのエビスビールです」ウエイトレスが微笑んだ。
ワインを注文した。飲み馴れないワインも秘酒の味わいだった。温子も飲んだ。温子の笑顔が花に咲いた。
その夜、ふたりは結ばれた。
桂馬は眠れなかった。明けやらない材木座海岸を一人で歩いた。動く物の気配のない海岸は波の音までも沈黙気味だった。沖の釣り船はまだ火を灯していた。桂馬は頭の中を空にしようと努めた。無駄だった。桂馬は腰を下ろし周りに身を任せた。
人の気配が始まり桂馬は腰を上げた。
温子はまだ眠っていた。桂馬の気配に弾かれたように半身を起こした温子は
「あら亀しゃん、お早うございます。歯を磨いて来ます」温子が洗面所に立った。
温子が跳ね上げた布団の下のシーツを桂馬は見た。シーツの一点を凝視した。
理解するまでの時間が永かった。桂馬は魚のつかみ取りの如くにシーツを剥がし元どうりに布団を掛け、階段を駆け下りた。
眼鏡をかけた中年のフロントは無造作にシーツを広げ、汚れをしげしげと見て「エー、そうですね。洗濯代としまして千七百円いただきます」
温子は全く気が付かなかったようだった。桂馬は胸を撫でおろした。

次の日曜日、桂馬は温子を新宿の伊勢丹に誘った。紅白の大福を、塩釜の母、姉の曜子、大宰府の温子の母、森田宛に「私たちは結婚します」とメモを添えて送った。
「どうして大福?どんな意味があるの?それに身内に婚約の報告?変ね」
「ほんとは紅白の餅がいいンだけど。大福で代用。どんな意味?いいンだ。色々想像してもらう。楽しみだナ」
桂馬が餅を送ることを思いついたのは、森田から聞いた話を思い出したからだ。鎌倉での事は桂馬にとって人生の一大事だったのだ。この事を心の中に、記念の玉にして置きたいと、恥ずかしがり屋の桂馬が考えに考え、辿り着いた納得いく妙案だった。桂馬の悪戯心もあった。

森田が桂馬に語った源氏物語の話はこうだった。
「葵の巻」で、源氏は幼い時から育てて来た紫の上と、時に添い寝して過ごしていた。紫の上が成長の兆しを見せた或る夜、源氏は紫の上を無理に奪った。その後、紫の上は源氏に無言の抗議を続けた。幼さの残る紫の上は、兄の様に慕っていた源氏の所業が理解できなかったのだろう。容赦もなかった源氏が許せなかったのだろうか。紫の上は当然抵抗したに違いない。
源氏は身の回りの人、友人、知人に紅白の餅を送った。当時、初枕を祝う習慣だったのだろうが、紫の上の身分を広く知らしめるためでもあったのだろう。源氏の紫の上への深い愛情でもあった。
 桂馬は以前、獣になった時、温子の涙を見て我に返った。その時桂馬は森田の話を思い出した。なよなよと女性のような殿上人にも及ばなかったと苦笑したのを思い出したのだった。
森田は当然気が付く筈だ。奥さんにどう説明するだろうか。桂馬の温子に対する深い愛情だよと説明するだろう。そう信じよう。
   ―おわりー
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10.02
Sun
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東京を包む仄かな残照 2016年8月25日新宿、東京都庁から写す

次第
砂内桂馬、団塊の世代。
秋風が立った。爽やかな朝だった。朝桂馬は無意識に、緩慢に腰を上げベランダに出た。
見るともなく下の道路を見る。黒いスーツ、黒い革靴、ネクタイ。若い男が行く。急ぎ足で。桂馬の背中に電撃が走る。行かなくては!電撃はややあって、遠い過去に桂馬を誘う。
それはやさしく桂馬を包み包み、やがて静かに去っていく。しばしの残照だった。

前回までのあらすじ
宮城県、塩釜生まれの桂馬は福岡、博多の女性、温子と運命的、劇的に回り会う。
東北の人は馴れない人に心を開かない人が多いという。桂馬もその後多分に漏れない。
それに加えて桂馬は生来、内気な性格だった。
男と女の出会いは不思議だ。性格の全く違う二人が引かれ合うのだ。博多の女、温子は明るい磊落な女性だった。
温子は土曜日、日曜日、“ままごと”と称して一緒に過ごすことを提案した。ままごとは一月以上に及んだ。内気な桂馬は「男の下半身は人格と関係ない」と云いながら温子に手が出なかった。その桂馬がある夜、フトしたことから獣になった。温子が抵抗した。温子の頬の涙に桂馬は我に返った。
二人は結婚の約束をする。桂馬は両親と姉、許嫁の承諾を取り付けた。両親と姉が博多の温子の両親に挨拶に行くという。二人も博多行を決めた。

残照 出会い(12)
「ピンポ~ン。亀しゃん、朝ですよ。もう起きないと遅刻ですよ」いつもと変わらない明るい温子の声だった。
だが桂馬の返事は聞こえなかった。桂馬は温子と顔を合わせる術がなく、目が覚めてもかなりの時間起きなかったのだ。
温子が桂馬の枕もとに座った。桂馬はしぶしぶ起き上がったが温子と顔を合わせることができなかった。
「ゆうべはごめん」下を向いたまま、消え入りそうな声だった。
「ううん。私、安心したわ。亀しゃん、私を女と認めてくれたンだもの。あれが普通よ。ずっと前、亀しゃん、云ったでしょう。男の下半身は人格と関係ないって。そのうち獣になって襲うヨって。私、待ってたのかもしれない。なのに、あんなに乱暴に叩いてしまって。私こそごめんなさい。
でもこれって本能の仕業よネ、亀しゃんも私も本能に従ったまで、何も悪い事ではないと思います。人間も動物の一員でしょう?いつか亀しゃんが云ったように。女の抵抗も本能なのよ、きっと。痛かった?」
温子の柔和な顔が桂馬の心を解いたが全てではなかった。

桂馬は釈然としない一日を送った。仕事も要領が悪く長引いた。さんざん思い迷うったが重い足はいつの間にか温子の部屋に向かっていた。
「あら、亀しゃん来てくださったのネ。いい知らせがあるの。お姉さんからお電話があったの。博多行、来月半ば頃、土曜、日曜かけてどうですか、だって。亀しゃんと相談してお返事くださいと云ってました。私は入社して間もなくで気が引けたけど、課長に事情を話して休ませて頂くようお願い済です」
桂馬は有給の休暇が貯まっていた。人事部から休暇を取るように勧められていた。仕事が気になったが2,3日の休暇は覚悟しなければならないだろう。
温子には桂馬の仕事に向き合う様子が不思議だった。中央線の中で出会った時の印象が今の桂馬と全く結び付かなかったのだ。万事につけ律儀と云うか無要領と云うか、生真面目な桂馬の姿が見え始めたて来た。そんな桂馬の性格が博多の父に似ているようで、温子に少なからず信頼感を抱かせた。
「日程その外は君に任せるよ。僕はその類が苦手なんだ、頼む。塩釜の姉と相談して。ただし破天荒計画はダメ」
「あら、破天荒だなんて。私は極めて常識人間よ。分かりました。お姉さんとジックリ相談します。それから私は“君”ではありません。鶴です。約束したのに!」
「ハイハイ、失礼しました。鶴しゃん」

博多行が間近かになるにつれて、桂馬の中に今まで経験したこともない漠然とした不安の様なものが蠢き始めた。
母は桂馬に結婚を勧めたことも匂わしたこともなかった。姉の曜子が時々「いつまで一人でフラフラしてるの、好きな人いないの」など冗談交じりに云った。会社の同年配の同僚や生時代の友人も独り者は少ない。それでも桂馬には差し迫ったものは何もなかったのだ。結婚のことなど考えたことはなかった、その桂馬の身の上に急に降りかかって来たのだ。
断片的ではあったが不安の言葉が桂馬の口から漏れ始めた。
温子は「これは自然の成り行きだと思うわ。世の中のどの夫婦もごく当たり前の顔をして、当たり前に振舞まってるでしょう。私たちは初めからこうなるように約束されていたの。だから世の中のどの夫婦よりもごく自然だと思う。色々思い悩まなくてもいいと思うけど。そうですよネ神様」天井を見上げて手を合わせ横目で桂馬をチラリとみてニヤリト笑った。
「私のお父さんには定番の“温子さんを下さい”と云うだけで結構です。云わなくてもいいけど、亀しゃん、律儀だから何か誠意を見せたいのでしょう?だからプレッシャーではないの?」

温子の日程の段取りは手際が良かった。塩釜の姉と相性がいいのだろう、お互いの目論見を纏めた様だった。母と姉は顔合わせ後、親子の親善再確認旅行と称して宮崎、鹿児島を回り、父は漁協が気になり一人で帰ることになった。
「親父と兄さん、男二人で大丈夫かな?」
「お兄さんってお姉さんの旦那さんでしょう?それは大丈夫。お姉さんのお家、旅館だから板前さんもお手伝いさんもいるから大丈夫だって。女ども、たまには消えて欲しかった、だって。二人でお酒飲むのが楽しみなのよ、きっと」
「私たちは京都で途中下車、四条の能楽堂で能を見るの」
「能って?」
「能、狂言の能よ」
「どうして能?能、見たことあるの?」
「あります。学生の頃。その時見た能はね、福島の二本松の安達ケ原に住んでた鬼の話。怖いのよ。偉い御坊さんが鬼を祈り伏せるの。“オンコロコロ、せんだりまとうぎ”意味は分かる訳ないけど、祈りの呪文よ。私の名前、温い子って書くでしょう。アツコではなくオンコって呼んでたのがこの時からオンコロになったの。何時か話さなかった?でも亀しゃんはオンコロって呼んではだめ、鶴ですからネ」
「私ね、本当は亀しゃんにネ東寺の仏像、見てほしかったの。私は高校の修学旅行で見たけど、金堂に色々の仏さまが安置していて、壮観よ。この仏さま達に、私達を見守って下さいとお願いするの。でもねこの間、会社の帰りに新宿のデパートに京都の物産展を見に行ったらネ、たまたま京都の能楽師の方がいて能のパンフを頂いたの。こちらの方がいいかなと思って。出し物が気にいったの。仏さまは博多の帰りにしましょう」
「どんな出し物?」
「芦刈、という能。パンフで読んだンだけど。貧乏で生活に困った夫が、妻を離縁して自分はストリートパフォーマンスをして乞食の様な生活をしてるの。妻は京の偉い人の乳母になって裕福になったンだけど、昔の夫が忘れられなくて昔住んでいた難波の浦に夫を探します。夫は零落れた姿が恥ずかしくて小屋に隠れます。恥ずかしがり屋さんは亀しゃんそっくりネ、フフフッ。そのあとがいいのよ。妻は昔の愛しい夫に語り掛けます。やがて夫の心も和み、二人は変わらない愛を語り合います。ストリートパフォーマンス、「笠ノ段」っていうのが面白いンだって。夫は妻の縁で京の偉い人に仕えます。めでたし、めでたし。面白そうでしょう」
「ウン面白そうだけど、それって、歌舞伎じゃあない?祇園の南座でやってるんじゃない?夫婦の情愛なんて世話物は歌舞伎だよ。能はしずしずと踊るンだろう?」
「“しずしず”だけではないそうよ。神様が現れたり、勇ましい戦いの物語や」温子は少し間をおいて上目使いに桂馬を見て「私達の様なラブラブの愛情の物語、フフフッ。芸尽くしの能。怖い鬼も出てくるの。ほら、テレビでやってる怪獣。口から火を吹いたり水を吹きかけたり。あれ能がルーツだって。」
「へえ~。いやに詳しいネ」
「詳しいでしょう。実はネ亀しゃんの真似して南荻久保図書館で調べて来たの。能はもともと庶民のものだったそうよ。だから題材は色々。世話物も当然あるンだって」

温子は三時頃には起き出し、ごそごそと何やら出発の準備を始めた。眠れないのだろう。三日も前から準備を始め、昨夜は「これでよし!用意万端整いました!」と得意顔だったのに。桂馬は吹き出しそうになった。
「よしそれでは出発しよう」
「えっ、まだ四時よ」
「起きていて、そわそわしていても仕方がないよ。始発の新幹線に乗ろう」
「切符は八時少し前の指定席だけど」
「始発なら自由席が空いてるさ」
まだ明け方の気配を残す早朝の電車は意外に賑やかだった。旅行姿の人や登山姿の人、大きなアルミのケースを持って雨靴を履いた人、築地に魚を仕入れに行く人だろう。
桂馬の予想どうり自由席はかなり空いていた。
初めて乗る、創業間もない新幹線は、この世のものとも思えない美しさだった。何か場違いの所に来たようで落ち着かなかった。
温子は昨夜の寝不足からか横浜をすぎた頃、桂馬にもたれ居眠りを始めた。桂馬は窓枠に肘をつき頬をのせ流れる景色を眺めた。早朝の景色は先鋭に、電車の速度に流れた。無意識のうちに、脳裏に思い出が流れはじめた。唱歌が流れた。
「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと」桂馬は遠い思い出に沈んだ。中園成麿の顔が浮かんだ。中園は音痴だった。彼より年上の子供達は中園に歌わせた。「今は山中~」彼が歌えたのはここまでだった。袖を目に当て、しゃくりあげるのが常だった。子ども達は囃したて、手を叩いて面白がった。中園の渾名は「パタン、プウ」だった。運動の苦手な中園は体操の科目の尻上がりが出来なかった。彼は励んだ。ある時、彼は鉄棒から手を放して落ちてしまった。プウ~オナラが鳴った。以来、彼をパタン、プウと呼び、パタンプウ、歌えとからかった。中園は桂馬より遥かに年上だったし友達の兄から聞いた話だった。出来過ぎたこの話は多分誰かの創作かもしれないと桂馬は思っている。今の世ならイジメの最たるものだが、当時は親も先生も誰も問題にしなかったし、本人も涙は流したものの何事もなく大人になった。今では北大の助教授だという。
 車内販売の間延びした声が聞こえた。思い出の流れが急に止まった。桂馬は頭だけを車内販売にねじ向けた。温子が目を覚ました。
「コーヒー買いましょう」

京都駅に着いたのは昼前だった。能の開演まで時間あった。当然のように、帰りに寄ることしていた東寺に向かった。境内は閑散としていた。大きな境内は昔の仏教全盛の賑わいを思わせた。
「今時の者ども、何処に行っとるのじゃ。無信心の者どもめ、地獄に送ってやるぞ。なんて仏さま、怒ってるよね」
「いいえ、怒りません。仏さまは優しいのよ。今日は時間がないから金堂だけ拝観しましょう」
本尊の薬師如来は慈悲を浮かべた穏やかな顔で微笑んでいが、本尊を守る仏さまが物凄い形相で桂馬を睨みつけているようで、居た堪れなかった。桂馬はほの暗いお堂の中に鎮座する黒々とした仏様が苦手だった。幼い頃、母に連れられて行った瑞巌寺の仏さまが恐怖だった。その恐怖が尾を引いているのだと思っている。
温子は門前のガラクタ市で鋳物の風鈴を買った。「涼やかなきれいな音色」と繰り返し駅に向かった。

桂馬は、京都は初めてだった。京都の目抜き通り、四条通りは噂のように賑やかだった。
「地図だとこの辺を右に入る筈だけど、あのお爺さんに聞いてみましょう」
中折帽を被り、杖をついて小腰をかがめた爺さんが前を歩いていた。振り返った爺さんの顔は、後ろ姿とは全く違い、艶のある浅黒い彫の深い顔だった。
「向こうの呉服屋を右に曲がってすぐだよ。能楽堂のお客さんかネ」
能楽堂は屋根付きの門をくぐった奥にあった。さほど広くない玄関に盛装した女性や背広姿の男たちが、隣を気使いながら挨拶を交わしていた。
客席の入り口に文机を置いて中年の切符切りの男が座っていた。小さなバンフを渡しながら「壁に沿って廊下を進みますともう一つ入り口があります、そちらからどうぞ。二階席もございます」京都弁の語調が、はるばる訪れた京都を想わせた。
廊下の突き当りに売店があった。壁際に長椅子が置いてあり、客が抹茶を啜っていた。お茶を点てて客に振る舞う、珍しい光景だった。売店の外に小さな池があり錦鯉が群がっていた。池は廊下の床下まで広がっているようだった。やはり京都だなと桂馬は思った。
客席は段差が付いた桟敷だった。客は小さな薄い座布団に座り、お喋りに余念がなかった。同好の顔見知りが多いのだろう。新宿の寄席、末広亭の雰囲気だナと桂馬は思った。
「ここにしましょう。」温子が最後列の通路沿いの席を指さした。
「前の方、二つくらいは空いてるよ」
「いいえ、“芦刈”だけ見て帰ります。入り口に近い方が都合いいでしょう?」
見慣れた舞台とは全く違い珍しい構造だった。壁際に役者が登場する花道の様な通路があり、その先に枡形の舞台が突き出ていた。舞台を客席が半円形に囲む形だった。幕は通路の奥にあり舞台には無い。古い様式なのだろうが、斬新な構造は驚きだった。背景に古木の松が描かれていた。一面に黒ずんで、重ねた時を思わせ、黒ずんだ松の緑に重みがあった。温子が耳打ちした。
「亀しゃん舞台の右奥に井桁が見えるでしょう。あれね、「菊水の井戸」と云うの。ここは千利休の師匠、武野紹鴎の屋敷跡だって」桂馬も耳打ちで
「へえ~、舞台装置の一部かと思った。先の戦争で京都は焼けなかったもンね。だから古いものが残ってるんだ。気違い戦争でもアメリカに正気な人がいて古都の京都を助けたんだネ。それにしてもよく知ってるネ」
「必死で調べたの。亀しゃんに自慢しようと思ってフフフッ」
幕の奥から笛の音が静かに流れた。続いて鼓の小気味よい音が唱和するように聞こえて来た。客のざわめきが徐々に消えて行った。
「お調べというそうよ。それぞれの楽器の調子を見ンだって。でも今では開演の雰囲気作りになったようヨ」
幕の隙間から現れた囃子は笛と小鼓と大鼓三人だけ、三味線など弦楽器はなかった。三つの楽器だけでドラマを支える演奏ができるのだろうか?
鋭い笛の音律が淀んだ空気を貫いた。三つの楽器から放射される直線的な鋭い音律は経験したこともない異次元に桂馬を誘った。
幕が上がり面を着けた女と、付き人だろう男二人が現れた。男の姿はテレビで見る時代劇の姿で珍しくはなかったが、女の姿が異様だった。昔の日本の女の衣裳なのだろう。日本人でありながら異様に見えた事が不思議だった。
「亀しゃん、亀しゃん!二番目の人、能楽堂を教えたお爺さんヨ」
「まさか、あの爺さん杖ついて、よぼよぼだったよ」
「いいえ、間違いありません。あの顔は一度見たら、こびり付く顔です。近づいたらよく見て」
まさしくあの老人だった。火事場の怪力というのもあるそうだ。人が緊張すれば能力以上のものが現れるという。能は緊張の芸能なのだろう、桂馬に緊張が沁みはじめた。
 セリフは昔の言葉だ、分かり難いだろうと予想していた。節をつけて謡うところは猶更理解し難かった。テレビなどに登場する歌舞伎など、古典芸能のセリフも同じように古いが、顔や体を過剰なまでにも使って表現するので何となく理解できる。
 能は全く違った。直線の動きだった。夫婦の情愛の甘美な空気は薄かった。エッセンスだけが突き刺さった。

桂馬は温子に促されて立ち上がったが異次元の世界から抜け出られないままだった。
「亀しゃんどうしたの。眠いの?無理もないわよね、初めてのお能だものね」
「何か訳の分からない、得体の知れないものが居座ってる」面白かったとか感動したとかとは違う今まで経験しとことがない不思議なものに包まれたのだった。
「まだ時間があるので四条通りで母にお土産を買います」
桂馬は化粧品屋の前で待った。派手なビニール袋を桂馬の前に突き出しながら温子はニコニコ顔で店から出て来た。
地下鉄の改札口は雑踏だった。
「あら、大変。カメラ、お店に置いて来ちゃった。急いで行ってきます。ここで待てて」
「いや、僕が行って来る。ここで待ってて、と云いたいがきっとソワソワ、ウロウロで迷子になると思う。京都駅の新幹線のホームで待ってて。五号車だよ。地下鉄の二つ目の駅が京都駅。五条、京都駅、乗り越さないで」
 新幹線のホームはかなりの混雑だった。温子はバッグを前に向こうを見つめていた。
「何、見てるの?」
「あら、亀しゃん、、、ありがとう、ありがとう!」
いきなり温子が桂馬の両手を掴み引き寄せた。茫然と立ち尽くす桂馬から、雑踏の人々の顔も消え、温子の唇のほのかな温かさが、すべてを桂馬に伝えた。
つづく
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09.03
Sat
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沖縄県、慶良間諸島の残照 2016年8月2日沖縄県渡嘉敷村阿波連海岸で写す

次第
砂内桂馬、団塊の世代。世にあった日々は遠い。無為の時が流れて久しい。
桂馬は夢を見た。色々の顔が桂馬に語りかける。懐かしさに涙が流れた。何故懐かしい、それは分からない。人々の顔も話も、何の繋がりもない。やがて人々の顔は一つまた一つと消えて行き、一つが残り語りかける。桂馬は目を覚ます。半身を起こして語りかけた顔を想う。ややあって思い出が滲みでる。それは大きく華やかに広がったが、やがて静かに消えていった。しばしの残照だった。

前回までのあらすじ
桂馬と温子の出会いは不思議な出会いだった。桂馬は生い立ちが原因で女性が苦手だったが、不思議な雰囲気を持つ温子に引かれていく。温子が通勤に便利な荻窪に引っ越すことになり桂馬は引っ越しを手伝う。桂馬と温子の間は急速に縮まった。二人は桂馬を亀、温子を鶴と呼び合う事にした。桂馬は温子の提案で “ままごと”と称して土曜と日曜、温子の部屋に泊まることにした。
叔父の忠告で桂馬は温子との結婚を決意する。桂馬は両親と姉の承諾を取り付けるため郷里の塩釜に行く。父母も姉も異存はなかった。桂馬は温子に電話した。温子は我を忘れて塩釜に駆けつけた。父母や姉、身の回りの人達が温子を歓待する。
桂馬は温子をザリガニ釣りに誘い、祖母のお手伝いだった桂馬の心の姉、フミの生涯を語った。温子は桂馬の“人となり”の一面を知る。

出会い(十一)
“ままごと”は二か月も続いたが二人の間はすっかり打ち解けたという訳ではなく何となく蟠りのようなもの、遠慮のようなもの、何かにつけ、ぎこちなさがあった。
それも塩釜から帰ってからは徐々に解けて行った。桂馬が温子の部屋に泊まることも多くなった。
温子は新しい職場に通い始めた。新しい温子の職場は秘書の仕事とは全く異質だったし人の数も比較にならない程多かった。温子は色々な人がいて楽しいと云った。
温子は気が置けない性格だ、誰とでもすぐ打ち解けるだろう、桂馬の心配は杞憂かもしれない、そう思いながらも心配のしこりは消えることはなかった。
温子の今までの職場で接触する人達は、議員という一人の人を支援する、云わばその人の一面だけのつきあいが多かったのだ。
新しい職場の人達は、世の中の多くの人と同じように生活を背負った人たちだ。どんな社会にも、受け入れられる人、反りの合わない人がいる。いかな温子でもそのような人に遭遇するだろう。今まで世情に疎い温子だ、その場面に遭遇した温子が思われ愛おしかったのだ。桂馬は温子の様子を見ることにした。時々荻窪の駅で待ち合わせOKストアで買い物をして帰った。狭い台所で職場の様子を聞いた。

夏の太陽も衰えはじめた朝、二人はちゃぶ台に向かっていた。温子が箸を咥えたまま頭を傾げ天井を見つめ、
「何処か涼しい処、ないかナ」
「春日神社は?」
「もう飽きちゃったし」温子は急に箸を下し桂馬を見つめ
「あ、そうだ、芦花公園に行きましょう」
引っ越した時、大家の奥さんが薦めた処だ。その時桂馬は芦花公園に興味を持ったのだった。芦花公園は明治、大正の作家徳冨蘆花が晩年住んでいた処だという。大家の奥さんは近くだと云ったが地図で調べたら、かなりの距離がありそうだった。
桂馬は蘆花の名を知っていた。祖父に教わったのだ。晩年の祖父は蘆花の「不如帰」の武雄と浪子、尾崎紅葉の「金色夜叉」の貫一とお宮を混同して話した。幼い桂馬には話の内容を理解できる筈もなかったが、祖父のうるんだ眼から祖父の心を読んだ記憶が今も残っていた。

温子は下駄で行きたいと云う。距離がありそうだからと桂馬が止めても譲らなかった。仕方なしに桂馬も下駄をはいた。
井の頭線の高井戸駅近くにスーパー、大関がある。二人が度々行く店だ。出店のパン屋のクロワッサンが温子のお気に入りだった。ここまでは温子の顔は笑顔だった。井の頭線のガードを潜ってしばらく、温子は「まだ?」を連発した。笑顔が少しずつ消えていった。大家の奥さんに、高井戸駅からすぐと聞いていたからだ。京王線、芦花公園駅が見え始めても笑顔は戻らなかった。
芦花公園駅の駅前に「氷」と染め抜いた幟旗が見えた。
「氷だよ、食べる?」
「どこどこ?食べる、たべる」温子の顔は笑顔に急変した。桂馬の手を掴んで急ぎ足に店に向かった。破顔一笑とはこのことだナ、桂馬は可笑しかった。
桂馬は美味しそうにカキ氷をたべる温子を見ていた。見ているだけで涼しくなる様な食べっ振りだった。
「あら、亀しゃん食べないの?」
桂馬は幼い頃からカキ氷が苦手だ。桂馬の母は「子供はカキ氷が大好きなのに、お前は変わってるネ」と云った。
「オヤジはネ、冷たいものが嫌いで、氷を水の固まりと呼んだンだ。水の固まりなんぞ食べて喜ぶンではないゾ、とよく云ってたナ、氷を毛嫌いしてた」
「あら、そう」温子は無反応だった。

公園は欅や椎の木の大木が茂り太陽を完全に遮ってほの暗かった。色の褪せた古びたブランコやシーソー、ベンチがあちこち置き忘れたように黒ずんでいた。ケヤキや椎の木の大木の幹が醜く乱立する間を透かして、その奥に竹垣に囲まれた、蘆花が最後まで住んでいたという家がぽつんねんと建っているのが見えた。
「やはり文豪の住家ね、どこか洒落てる。だけど藪蚊が出そうネ、夏は涼しそうだけど冬は寒そう」
「蘆花が住んでいた頃は、周りは畑や林だったそうだ」
「当時、有名な小説家だったのでしょう?どうしてわざわざこんな不便な処に住んだのでしょう」
「さあネ、生まれは熊本の名家だったらしい。兄弟と云うのは面白いネ。兄の徳富蘇峰は当時日本を代表するジャーナリスト、思想家で、かなりの高齢まで中央に君臨していたそうだ。蘇峰の意味は熊本の大噴火山、阿蘇山だって。
蘆花の名は地味なアシの花。40歳で奥さんと二人、この土地で半農生活を送り60才で亡くなったそうだ。蘇峰、蘆花兄弟はとても仲が悪かった。でも蘆花の死の枕元で二人は仲直りしたそうだ」
「どうして仲が悪かったの?」
「さあネ。例えば佐藤紅緑とサトウハチロウー親子のようなものじゃない?紅緑は当時、売れっ子の作家、息子の詩を、もっとマシな物を書けと度々怒鳴ったそうだ。この親子も仲が悪かったそうだよ」
「わア~亀しゃん物知り」
「だろう!実を云うとネ、芦花公園に行こうと云ったとき、チョットと云って出かけたよネ。南荻窪図書館で調べて来たんだ」

いつの間にか晩夏の太陽は大きく西に傾いていた。温子は足の疲れを忘れたようだった。高井戸駅まで兄弟の話が細々と続いた。
桂馬が歩き馴れた道はつまらないと高井戸駅の西の道から帰ろうと提案した。二人とも初めての道だった。温子は、もし迷ったら足も痛いし、困ると反対したが、荻窪駅の方向、東に歩けば必ず知っている道に出る筈だと温子の背中を押した。

見慣れた風景は中々出て来なかった。「迷ったかな?」動揺を温子にさとられないように歩いた。自転車に乗った若い男に荻窪駅の方角を聞いた。男は東の方向を指さし無言で走り去った。アパートの方角に大きく外れていた。さすがの温子も気づいたらしく、
「ほらごらん、迷ったでしょう。もう私、歩けません。見て」温子の足は下駄の緒の形に真っ赤だった。温子がうずくまった。
「ごめん、でももう直ぐだよ。頑張って歩こう」
温子は両膝を抱いて顎を乗せ、目をつぶった。桂馬も向き合ってうずくまった。温子は動く気配はなかった。
「姫様、お籠をお呼びしましょう」桂馬が背中を向けた。途端に温子が無言で桂馬の首にしがみついた。桂馬はたじろいだ。意外だったからだ。
「おやおや、姫様。お籠の中では履物はお脱ぎになった方が」
下駄がカラリと落ちた。
「それでは旅の徒然に、お話でも致しましょう。お気に召されなければ私メの背中を一つ、ガッテンならば二つ突ついてください」

「昔むかし、あるところにお爺さんとお婆さんがいました。お婆さんは山に柴刈に、お爺さんは川に洗濯に、え?トン一つ、異議あり?だったら背中に書いて。うんうん、逆?
でも同じ話ではつまらないから。
山の大きな桃の木に金色に光った大きな桃が一つだけなっていました。お婆さんは大喜びで取って帰りました。え、トントン、二つ!
お爺さんが洗濯をしていると大きな桃がドンブリコ、ドンブリコと流れてきました。
桃は川の石にぶつかってキズだらけでした。それでもお爺さんは大喜びで拾って帰りました。トン!一つ?お爺さん可哀そうだよネ
金色のお婆さんの桃から丸々と元気な男の赤ちゃんが生まれました。お婆さんは赤ちゃんに富士太郎と強そうな名前を付けました。
傷ついたお爺さんの桃からは、ほっそり、まあまあの可愛い赤ちゃんが生まれました。トン!一つ?でも兄弟は一人ひとり違うよ。
お爺さんは蘆丸(すすきまる)と名前を付けました。
喜んだお爺さんは二人が生まれた桃の実二つを大事に神棚に飾りました。
富士太郎は大きくなって山のウサギと駆けっこしたり、熊とお相撲取ったりして逞しく成長して、山の動物達を家来にしました。噂は遠くまで広がりました。殿さま達のドラフト会議で指名一位になり有力殿さまの家来になってお金を沢山もらいました。お婆さんは飛び上がって喜びしました。お婆さんはお金持ちになりました。トン二つ!
蘆丸も大きくなりました。蘆丸は逞しくはありませんでした。お百姓さんから米や麦、野菜などの作り方を勉強しました。お寺のお坊さんからも色々のことを教えてもらいました。トン、ないの?
大人になった蘆丸は作物の作り方や、お坊さんから学んだことを教える人になりました。お爺さんは相変わらず貧乏でしたがちっとも不幸だとは思いませんでした。トン一つ!
お爺さんは仕方がないと諦めた訳ではないと思う。自分なりの幸せだと思ったのだとおもう。
お爺さんとお婆さんは別居か離婚か、したのかって?お爺さんにお金、上げないから?そう深くは考えないの!与えられたことだけそのまま受け入れればいいの!お話なんだから。
でもネ、夫婦は全く違う人間だし、全く違う環境で育った二人が一緒になるンだヨ、、、色々あるだろう、、、そう思って納得して。
そして月日が流れました。富士太郎は偉くなったので昔の家に帰る暇はなかったがある日懐かしくなって昔の家に帰りました。蘆丸は喜びました。二人は桃の実を並べてお爺さんとお婆さんの思い出話をしました。
桃の実が二つに割れて金色の実から金色の煙、傷の実からカバ色の煙が立ち昇りました。富士太郎の髪は金色に、蘆丸の髪はカバ色に染まりました。二人はニヤリと笑いました。
トン一つ!「どうしてニヤリかって?好きに想像したら?」
二人は枕を並べました。やがて二人の髪は二人とも一緒に真っ白に変わりました。二人は驚きませんでした。二人は顔を見合わせ声を揃えてハッハッハと大笑いして静かに目を閉じました。おしまい」

「ハイ着きました」桂馬がしゃがんで手を緩めた瞬間、温子は桂馬の背中を突き放しアパートの階段を鳴らして駆け上がり、踊り場から振り返り、唖然と見上げる桂馬に
「あ~楽ちん楽ちん!楽しかった!亀しゃん、騙しちゃった」云うなり部屋に駆け込んだ。
桂馬も続いた。温子は濡タオルを頭にかぶり上目使いに桂馬を見つめた。
「よくも騙したな!」
「ごめんなさい。もうしません。ごめんなさい、、、」「次は忘れた頃にします」最後は聞こえなかった。
「私の生涯で、こんな楽しいことのナンバーワン、お礼に御馳走します。OK牧場に行きましょう」
「足は?」
「平気、治っちゃった」
「現金だな。もう、おんぶはいやだよ、自転車」
「ハイハイ。結構でございます。運転をお願いいたします」
「運転?自転車の免許証、持ってないよ」
「捕まったら罰金、私が払います」
OKストアは混んでいた。大勢の客のざわめきが反って心地よかった。
「今晩は玄界灘ナベにします。まだ暑いけど亀さんの“おんぶ”の汗を罪滅ぼしに私もかきたいから」
玄海鍋は温子の創作ナベだ。練馬から引越す最後の夜に二人で食べた。温子の郷里は福岡、福岡の海は玄界灘、荒っぽいナベと云う意味で名付けたが、名に反して旨かったのを思い出した。
夜に入っても暑かった。
「さすがに暑い、でも美味しい」
全ての窓、玄関も、風呂場の窓も開け放って食べた。大通りからは遠く、玄関下の通りは車も人も希だった。知らない世界に隔離されたような静けさだった。

「亀しゃんの昔話、面白かったナ。桃太郎のお話かなと思ったら最後は浦島太郎だったわネ。桃太郎と浦島太郎のパロディ、面白かった」
「でもお婆さんの桃は金色なのに、お爺さんの桃はキズだらけ、不公平よ」
「お婆さんを羨ましがっても仕方がない、キズ桃でも有難いと思ったンだよきっとお爺さん。情けないお爺さんだと思うだろう?」
「ふっふっふ。富士太郎の髪は金色に染まって、蘆丸の髪はカバ色。ここまでは分かるんだけど、最後は二人とも真っ白になって大笑いしたわよね、何が面白かったの?」
「さあ、何かな?同じだなと思ったンだよきっと、二人とも同じ思いだったンじゃない?」
「同じって?何が同じ?」
「僕にもわからない」
「でも亀しゃんが作ったのよ」
「でもわからない」
「それはそれとして、どうも怪しいナと思ったんだ」
「何が怪しかったの?」
「素直に背中をトントンつつくからサ。怒ってたら、突かないよね。オレも鈍感だったナ。何時か仕返しするゾ」
「おぉ怖い。今夜は布団、遠くに離して敷きます。夜中に亀しゃんに首、絞められそうだから、ふっふっふ」
温子はいきなり布団に飛びこみタオルケットを頭からかぶった。温子の忍び笑いが間を置いて聞こえて来た。桂馬の中から今まで経験したこともない得体のしれないものが湧き上がった。得体のしれないものは瞬く間に桂馬の身体に充満し全てを追い出し、頭の中を火となって燃え上がらせた。
それは桂馬を勝手に起き上がらせ温子のタオルケットを剥ぎ取り寝間着の衿を掴ませた。
温子が抵抗した。凄まじい抵抗だった。華奢な手足が鋼鉄の棒のように踊り肘が桂馬の顎を突き上げた。一瞬のけぞったが桂馬の身体は人間を離れていた。
温子の全身から急に力の波が引いた。桂馬の中の血は一瞬に固まった。温子の両手を掴んだまま桂馬は温子を見下ろした。温子の頬を涙が伝った。波打ったシーツの上に散乱した寝間着のボタンに追われるように桂馬は手を放した。己への嫌悪感か空虚感か、堪えられない重圧が桂馬を襲った。
温子が半身を起こして桂馬の手を握った。
「ごめんなさい。心の準備を全くしてなかったものだから」涙声だった。
     つづく

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