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02.01
Sat
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竹富島の残照 2013年11月


それは桂馬の人生最大といってもいいほどの事件だった。
酒好きの桂馬は昨夜も飲み過ぎた。けだるい寝覚めに、だらだらと着替えを始めた。「あなた電話ですよ」。
温子の声が聞こえた。「だれ?」「卜部さんの奥さん」桂馬はパジャマの上着を引きずって電話口に急いだ。
卜部はここ数日、会社を休んでいた。緊急の部品を昼夜兼行で卜部に仕上げさせ、やっとの思いで親会社に納めたその
翌日、体調がすぐれないので休ませてほしいと電話があった。数日続けて休むのは珍しいことであったし、丈夫ではなさそうな卜部に無理させたと気にしていた矢先だった。「卜部が亡くなりました」「え?何ですって?」「卜部が死にました」電話の声はか細く震えていた。
桂馬は高尾へ急いだ。卜部の家は裏高尾の山裾にあった。
「数軒先に豆腐屋がありましてね、うまいンです。特製納豆も造っていてね、これがまた絶品なンですよ。高尾の駅では一割増しで売っていましてね。地元の名物にすべきなのに。あんな阿漕な商売、いいんですかね?山の上には薬王院。いい所ですよ」電車の轍の音が、酔うと決まってでる卜部の自慢話に聞こえてきた。
桂馬が卜部の自宅を訪ねたのは初めてではなかった。「勧善院」と大書した分厚い大きな木の札はそのままだった。
卜部は僧籍に入っていたのだ。
玄関をはいると香の臭いが鼻をついた。強烈であった。卜部は「祈りの間」に横たわっていた。香炉から香の煙が立ちのぼり蔵王権現の像が桂馬を睨みつけるように立っていた。
「卜部は毎朝焼香して出かけていたのですよ、気持ちを奮い立たせようとしたのでしょうね」「私が卜部を殺したのですよ」奥さんはうつむいた。頭に白いものが幾筋かみえた。桂馬もうつむいた。

卜部夫婦には男の子が二人いた。次男は生まれて間もない頃から小児喘息を患っていた。二十歳過ぎても治る気配がなかった。奥さんは難病の次男を溺愛した。
奥さんは時々涙を拭きながら「わたしの愛情が薄いせいでしょうね。長男は暴走族に入って中古でしたが外車を買ってね。わたしは、駄目と云えなかったのですよ。次男もまた車を欲しがってね。結局買ってあげたのです。主人に内緒でサラ金からお金借りてね」奥さんは目頭を押さえ、しばらくして「わたしは八王子の結婚式場で着付け係をしていましてね。お金は何ンとかなると思ったのです。あさはかですよね」桂馬はただうつむいて相槌もうてず聞くだけだった。
「主人に知られない訳ないですよね」「主人は、オレにも責任があるンだよ。因果応報なのだよ」奥さんは嗚咽を噛み殺すようにハンカチで口を押さえ「そう言ったのですよ」奥さんはうずくまるように腰を折りハンカチで顔をおさえた。小さな背中が波を打った。
帰りのバスの中でも奥さんの背中の波の残像は消えなかった。

桂馬は高尾駅前の、あさかわ食堂の暖簾をくぐった。上品な優しい顔の女将さんと二十歳半ばの美人の娘が笑顔で迎えた。一つ空いていた椅子に腰をおろし下を向いたまま「ビール」と呟くように云った。「はい!あら今日はお一人?ハイキングではないみたいね?」「取り込みがあってね」
桂馬は気晴らしに時々仲間を誘って相模湖周辺の山を歩いた。帰りにはきまってこのあさかわ食堂に寄った。ここはハイキング客の溜まり場だった。素朴な店の雰囲気が癒しだった。富山の魚津港から取り寄せているという魚が旨かった。桂馬はしたたかに酔った。どう電車に乗ったのか意識もおぼろげに改札を出、駅前のベンチに寝込んでしまった。手にしたスイカ入りの財布が手からこぼれ落ちた。知り合いの娘が通りかかり財布を拾い上げ優しく桂馬のかたを揺すった。桂馬の肩は波のように揺れ意識は更に波間に沈んでいった。
 
卜部は変わった経歴をもっていた。会社の謡曲部で、謡曲のなかにでてくる仏教の教えに感動して、仏教大学の通信教育をうけはじめたのだ。一ヶ月間の卒業講義に参加してついに僧籍を手にした。一ヶ月間もの休暇の申し入れに会社は驚いたが卓抜な技術を持っていることや彼の一途な性格を顧慮して休暇を与えた。
桂馬は機械メーカーの製造部門の課長だった。卜部はその下で働く機械職人だった。
会社の福利厚生制度の一環として芸能のグループがあった。謡曲部もその一つであった。桂馬は謡曲のことは不案内だったが頼まれて謡曲の部長になった。卜部は謡曲部のまとめ役であった。連絡や打ち合わせなどで桂馬の席に時々やってきた。
春秋の発表会の打ち上げなどでは酒を酌み交わした。卜部は酔うと桂馬に熱っぽく仏教の教義の話をした。
 仏教大学の卒業講義に参加するための一ヶ月休暇を、労務係に話をつけた桂馬への感謝の気持ちも込められていたのだろう。飾らない、思い込みの激しい、一途な卜部に桂馬は興味をもつようになった。
卜部との交流が始まって三年ほど、春の日差しが暖かい昼休み、卜部は茶封筒を持って現れた。「蔵王権現の開眼式をやります。是非きてください。招待状です。」と丁寧に封筒を桂馬の机の上に置いた。「エ?権現?そんな仏様あるの?」
「実は修現道の勉強もしているんです。なんとか形が見えてきたので権現様を勧請しようと造ってもらったンです」

開眼式の日、桂馬は卜部宅を訪ねた。玄関には表札はなく「勧善院」と大書した分厚い大きな木の札が掛かっていた。階段を上がった正面に「祈りの間」と書いた和紙が貼ってあった。
白い布で覆った蔵王権現なのだろうその前に護摩壇がしつらえてあった。香が鼻をつき異様な雰囲気であった。招待者は十人ほど、数珠を手にしていた。卜部は山伏姿をしていた。大きな数珠が目を奪った。
護摩壇に護摩木が焚かれ、卜部は数珠を押し揉んで祈り開眼式はものものしい雰囲気で終わった。
どこでどう調達したのか直会では豪華な精進料理がふるまわれた。卜部は「わたしは今日から草や木、水や土、雲や霧、自然と一体となって即身成仏をめざします」と挨拶して「そのうち役行者のように空を飛んで富士山に遊びに行きます。これは冗談ですが」と笑いながら結んだ。
桂馬にはその意味がよく解からなかったが、おぼろげながら感じるものがあった。
 
開眼式からしばらくして、桂馬は下請け会社に出向を命ぜられた。下請け会社の経営者が重病を患い経営に支障の恐れがあったからだ。この下請け会社は、ほぼ全ての仕事を桂馬の会社に頼っていた。いわば子会社に近かった。

桂馬は馴れない会社の経営に没頭した。卜部との繋がりも無くなり、忘れかけたある日、卜部から電話があった。
どうしても相談に乗ってほしいと卜部らしくない沈んだ声だった。次の日、卜部はかなり遅い時間に一升瓶と紙袋を抱えて桂馬の事務所に現れた。「ここで飲むわけにはいかないよ。面白い婆ちゃんの店が近くにあるんだ。二階を予約してあるから」二人は店に向かった。卜部はうつむいて黙り込んで歩いた。よほどのことがあったのだろうと桂馬は思った。
卜部は桂馬の隣に、横並びにテーブルに座った。二人とも急ピッチに飲んだ。いきなり卜部は向こう側に回り、畳に頭をつけて「課長お願いします」卜部の声は悲鳴に近かった。「私を課長の会社で働かせてください」卜部は三度くりかえした。予想もしなかった事態に桂馬はただ呆然としていた。卜部はテーブルににじり寄りテーブルの縁を両手でつかみ「課長にすがるしか方法がないのです」その目は燃えるようであった。
卜部の身に起きた事態はこうであった。奥さんが借りたサラ金会社から返済の電話がかかってくるようになった。その都度卜部は事務所の電話口に呼び出され周りに事情を知られるようになった。卜部は労務部に呼び出され事情を聞かれた。もうこの会社にはいられないというのだった。
「サラ金会社は家を売れと言うんですよ。私は構わないが息子と女房にすまないと思ってね。こうなったのも私が次男と女房に犯した罪なんですよ…」卜部はうつむき拳を握りしめて顔を上げ「あのとき…あれを…引き抜いて…それが指に絡んで」…「あの子が生まれたンですよ」…「指の感触が今も…神罰です…」卜部の告白は嗚咽で終わった。
数日後、桂馬は親会社に行き、卜部の移籍を提案した。当時サラ金に纏わる事件が社会問題になっていた。会社は体面を考えてか簡単に応じた。
卜部は又、桂馬の下で働くようになった。卜部は借金の返済のために土曜、日曜、祝祭日もなく働き、深夜に及ぶこともあった。桂馬は、労働基準法に触れるし身体がもたないからと卜部の残業を制限しようとしたが、卜部の土下座の頼みには抗し得なかった。

 卜部の突然死は明らかに過労死であった。一途な卜部だが、そのうち疲れて無理を止めるだろうと思っていた桂馬には今まで経験したことのない衝撃だった。会社の部下達や、卜部を知っている親会社の人たちは、桂馬が卜部を無理に働かせたと思ったのだろう「卜部は砂内(桂馬の姓)さんが殺したンですよ」と冗談まじりに云った。桂馬には冗談には聞こえなかった。耐えられなかった。卜部は卓抜した職人だった。桂馬はその後の対策に奔走した。親会社の製造部門との折衝は殊に辛かった。桂馬と卜部の前の職場であり卜部を知っている人も多く、卜部のことを面白おかしく話したからだ。
 桂馬は起きてから寝るまで卜部のことが頭から離れなかった。「卜部は役行者のように、空を飛ぶのに邪魔な肉体を脱いだのだきっと」桂馬は卜部流の珍説を思いつき、信じようとしたが無駄だった。次第に他のことを考える力が衰え、どこからか「卜部をころしたな」とささやく声が聞こえた。寡黙になり、心は虚ろになっていった。
 桂馬の変化は温子にも大きな重圧だった。何とかしなくては、温子の思いは日ごとにつのっていった。
「ねえ、白樺湖、行かない?行きましょうよ!学生の頃徹子達と行ったの。いいところよ!ロマンチックな湖よ!湖の上のほうに車山って丸ァるい山があってね、眺めがすばらしいの!そのまた残照がすばらしいの!まるで極楽浄土よ!」「極楽浄土に行ったことあるのか?」温子は頬をふくらましてみせて「もう!まじめに聞いてよ!」温子は熱心に誘った。「まあそのうちにね」はぐらかすように立ち上がりながら答えた。
温子が桂馬をもとの桂馬にしようと必死に策を考えていることはわかっていたが今の桂馬はその気になれなかった。
 温子は折に触れ誘った。さすがに桂馬も温子の気持ちを踏みにじるような自分が情けなく「いいよ行こう」と答えた。温子は「バンザーイ」と叫んで両手を上げ三回とびあがった。
二人は車山へ行くことになった。あの車山へ。                           (つづく)

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