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10.02
Sun
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東京を包む仄かな残照 2016年8月25日新宿、東京都庁から写す

次第
砂内桂馬、団塊の世代。
秋風が立った。爽やかな朝だった。朝桂馬は無意識に、緩慢に腰を上げベランダに出た。
見るともなく下の道路を見る。黒いスーツ、黒い革靴、ネクタイ。若い男が行く。急ぎ足で。桂馬の背中に電撃が走る。行かなくては!電撃はややあって、遠い過去に桂馬を誘う。
それはやさしく桂馬を包み包み、やがて静かに去っていく。しばしの残照だった。

前回までのあらすじ
宮城県、塩釜生まれの桂馬は福岡、博多の女性、温子と運命的、劇的に回り会う。
東北の人は馴れない人に心を開かない人が多いという。桂馬もその後多分に漏れない。
それに加えて桂馬は生来、内気な性格だった。
男と女の出会いは不思議だ。性格の全く違う二人が引かれ合うのだ。博多の女、温子は明るい磊落な女性だった。
温子は土曜日、日曜日、“ままごと”と称して一緒に過ごすことを提案した。ままごとは一月以上に及んだ。内気な桂馬は「男の下半身は人格と関係ない」と云いながら温子に手が出なかった。その桂馬がある夜、フトしたことから獣になった。温子が抵抗した。温子の頬の涙に桂馬は我に返った。
二人は結婚の約束をする。桂馬は両親と姉、許嫁の承諾を取り付けた。両親と姉が博多の温子の両親に挨拶に行くという。二人も博多行を決めた。

残照 出会い(12)
「ピンポ~ン。亀しゃん、朝ですよ。もう起きないと遅刻ですよ」いつもと変わらない明るい温子の声だった。
だが桂馬の返事は聞こえなかった。桂馬は温子と顔を合わせる術がなく、目が覚めてもかなりの時間起きなかったのだ。
温子が桂馬の枕もとに座った。桂馬はしぶしぶ起き上がったが温子と顔を合わせることができなかった。
「ゆうべはごめん」下を向いたまま、消え入りそうな声だった。
「ううん。私、安心したわ。亀しゃん、私を女と認めてくれたンだもの。あれが普通よ。ずっと前、亀しゃん、云ったでしょう。男の下半身は人格と関係ないって。そのうち獣になって襲うヨって。私、待ってたのかもしれない。なのに、あんなに乱暴に叩いてしまって。私こそごめんなさい。
でもこれって本能の仕業よネ、亀しゃんも私も本能に従ったまで、何も悪い事ではないと思います。人間も動物の一員でしょう?いつか亀しゃんが云ったように。女の抵抗も本能なのよ、きっと。痛かった?」
温子の柔和な顔が桂馬の心を解いたが全てではなかった。

桂馬は釈然としない一日を送った。仕事も要領が悪く長引いた。さんざん思い迷うったが重い足はいつの間にか温子の部屋に向かっていた。
「あら、亀しゃん来てくださったのネ。いい知らせがあるの。お姉さんからお電話があったの。博多行、来月半ば頃、土曜、日曜かけてどうですか、だって。亀しゃんと相談してお返事くださいと云ってました。私は入社して間もなくで気が引けたけど、課長に事情を話して休ませて頂くようお願い済です」
桂馬は有給の休暇が貯まっていた。人事部から休暇を取るように勧められていた。仕事が気になったが2,3日の休暇は覚悟しなければならないだろう。
温子には桂馬の仕事に向き合う様子が不思議だった。中央線の中で出会った時の印象が今の桂馬と全く結び付かなかったのだ。万事につけ律儀と云うか無要領と云うか、生真面目な桂馬の姿が見え始めたて来た。そんな桂馬の性格が博多の父に似ているようで、温子に少なからず信頼感を抱かせた。
「日程その外は君に任せるよ。僕はその類が苦手なんだ、頼む。塩釜の姉と相談して。ただし破天荒計画はダメ」
「あら、破天荒だなんて。私は極めて常識人間よ。分かりました。お姉さんとジックリ相談します。それから私は“君”ではありません。鶴です。約束したのに!」
「ハイハイ、失礼しました。鶴しゃん」

博多行が間近かになるにつれて、桂馬の中に今まで経験したこともない漠然とした不安の様なものが蠢き始めた。
母は桂馬に結婚を勧めたことも匂わしたこともなかった。姉の曜子が時々「いつまで一人でフラフラしてるの、好きな人いないの」など冗談交じりに云った。会社の同年配の同僚や生時代の友人も独り者は少ない。それでも桂馬には差し迫ったものは何もなかったのだ。結婚のことなど考えたことはなかった、その桂馬の身の上に急に降りかかって来たのだ。
断片的ではあったが不安の言葉が桂馬の口から漏れ始めた。
温子は「これは自然の成り行きだと思うわ。世の中のどの夫婦もごく当たり前の顔をして、当たり前に振舞まってるでしょう。私たちは初めからこうなるように約束されていたの。だから世の中のどの夫婦よりもごく自然だと思う。色々思い悩まなくてもいいと思うけど。そうですよネ神様」天井を見上げて手を合わせ横目で桂馬をチラリとみてニヤリト笑った。
「私のお父さんには定番の“温子さんを下さい”と云うだけで結構です。云わなくてもいいけど、亀しゃん、律儀だから何か誠意を見せたいのでしょう?だからプレッシャーではないの?」

温子の日程の段取りは手際が良かった。塩釜の姉と相性がいいのだろう、お互いの目論見を纏めた様だった。母と姉は顔合わせ後、親子の親善再確認旅行と称して宮崎、鹿児島を回り、父は漁協が気になり一人で帰ることになった。
「親父と兄さん、男二人で大丈夫かな?」
「お兄さんってお姉さんの旦那さんでしょう?それは大丈夫。お姉さんのお家、旅館だから板前さんもお手伝いさんもいるから大丈夫だって。女ども、たまには消えて欲しかった、だって。二人でお酒飲むのが楽しみなのよ、きっと」
「私たちは京都で途中下車、四条の能楽堂で能を見るの」
「能って?」
「能、狂言の能よ」
「どうして能?能、見たことあるの?」
「あります。学生の頃。その時見た能はね、福島の二本松の安達ケ原に住んでた鬼の話。怖いのよ。偉い御坊さんが鬼を祈り伏せるの。“オンコロコロ、せんだりまとうぎ”意味は分かる訳ないけど、祈りの呪文よ。私の名前、温い子って書くでしょう。アツコではなくオンコって呼んでたのがこの時からオンコロになったの。何時か話さなかった?でも亀しゃんはオンコロって呼んではだめ、鶴ですからネ」
「私ね、本当は亀しゃんにネ東寺の仏像、見てほしかったの。私は高校の修学旅行で見たけど、金堂に色々の仏さまが安置していて、壮観よ。この仏さま達に、私達を見守って下さいとお願いするの。でもねこの間、会社の帰りに新宿のデパートに京都の物産展を見に行ったらネ、たまたま京都の能楽師の方がいて能のパンフを頂いたの。こちらの方がいいかなと思って。出し物が気にいったの。仏さまは博多の帰りにしましょう」
「どんな出し物?」
「芦刈、という能。パンフで読んだンだけど。貧乏で生活に困った夫が、妻を離縁して自分はストリートパフォーマンスをして乞食の様な生活をしてるの。妻は京の偉い人の乳母になって裕福になったンだけど、昔の夫が忘れられなくて昔住んでいた難波の浦に夫を探します。夫は零落れた姿が恥ずかしくて小屋に隠れます。恥ずかしがり屋さんは亀しゃんそっくりネ、フフフッ。そのあとがいいのよ。妻は昔の愛しい夫に語り掛けます。やがて夫の心も和み、二人は変わらない愛を語り合います。ストリートパフォーマンス、「笠ノ段」っていうのが面白いンだって。夫は妻の縁で京の偉い人に仕えます。めでたし、めでたし。面白そうでしょう」
「ウン面白そうだけど、それって、歌舞伎じゃあない?祇園の南座でやってるんじゃない?夫婦の情愛なんて世話物は歌舞伎だよ。能はしずしずと踊るンだろう?」
「“しずしず”だけではないそうよ。神様が現れたり、勇ましい戦いの物語や」温子は少し間をおいて上目使いに桂馬を見て「私達の様なラブラブの愛情の物語、フフフッ。芸尽くしの能。怖い鬼も出てくるの。ほら、テレビでやってる怪獣。口から火を吹いたり水を吹きかけたり。あれ能がルーツだって。」
「へえ~。いやに詳しいネ」
「詳しいでしょう。実はネ亀しゃんの真似して南荻久保図書館で調べて来たの。能はもともと庶民のものだったそうよ。だから題材は色々。世話物も当然あるンだって」

温子は三時頃には起き出し、ごそごそと何やら出発の準備を始めた。眠れないのだろう。三日も前から準備を始め、昨夜は「これでよし!用意万端整いました!」と得意顔だったのに。桂馬は吹き出しそうになった。
「よしそれでは出発しよう」
「えっ、まだ四時よ」
「起きていて、そわそわしていても仕方がないよ。始発の新幹線に乗ろう」
「切符は八時少し前の指定席だけど」
「始発なら自由席が空いてるさ」
まだ明け方の気配を残す早朝の電車は意外に賑やかだった。旅行姿の人や登山姿の人、大きなアルミのケースを持って雨靴を履いた人、築地に魚を仕入れに行く人だろう。
桂馬の予想どうり自由席はかなり空いていた。
初めて乗る、創業間もない新幹線は、この世のものとも思えない美しさだった。何か場違いの所に来たようで落ち着かなかった。
温子は昨夜の寝不足からか横浜をすぎた頃、桂馬にもたれ居眠りを始めた。桂馬は窓枠に肘をつき頬をのせ流れる景色を眺めた。早朝の景色は先鋭に、電車の速度に流れた。無意識のうちに、脳裏に思い出が流れはじめた。唱歌が流れた。
「今は山中、今は浜、今は鉄橋渡るぞと」桂馬は遠い思い出に沈んだ。中園成麿の顔が浮かんだ。中園は音痴だった。彼より年上の子供達は中園に歌わせた。「今は山中~」彼が歌えたのはここまでだった。袖を目に当て、しゃくりあげるのが常だった。子ども達は囃したて、手を叩いて面白がった。中園の渾名は「パタン、プウ」だった。運動の苦手な中園は体操の科目の尻上がりが出来なかった。彼は励んだ。ある時、彼は鉄棒から手を放して落ちてしまった。プウ~オナラが鳴った。以来、彼をパタン、プウと呼び、パタンプウ、歌えとからかった。中園は桂馬より遥かに年上だったし友達の兄から聞いた話だった。出来過ぎたこの話は多分誰かの創作かもしれないと桂馬は思っている。今の世ならイジメの最たるものだが、当時は親も先生も誰も問題にしなかったし、本人も涙は流したものの何事もなく大人になった。今では北大の助教授だという。
 車内販売の間延びした声が聞こえた。思い出の流れが急に止まった。桂馬は頭だけを車内販売にねじ向けた。温子が目を覚ました。
「コーヒー買いましょう」

京都駅に着いたのは昼前だった。能の開演まで時間あった。当然のように、帰りに寄ることしていた東寺に向かった。境内は閑散としていた。大きな境内は昔の仏教全盛の賑わいを思わせた。
「今時の者ども、何処に行っとるのじゃ。無信心の者どもめ、地獄に送ってやるぞ。なんて仏さま、怒ってるよね」
「いいえ、怒りません。仏さまは優しいのよ。今日は時間がないから金堂だけ拝観しましょう」
本尊の薬師如来は慈悲を浮かべた穏やかな顔で微笑んでいが、本尊を守る仏さまが物凄い形相で桂馬を睨みつけているようで、居た堪れなかった。桂馬はほの暗いお堂の中に鎮座する黒々とした仏様が苦手だった。幼い頃、母に連れられて行った瑞巌寺の仏さまが恐怖だった。その恐怖が尾を引いているのだと思っている。
温子は門前のガラクタ市で鋳物の風鈴を買った。「涼やかなきれいな音色」と繰り返し駅に向かった。

桂馬は、京都は初めてだった。京都の目抜き通り、四条通りは噂のように賑やかだった。
「地図だとこの辺を右に入る筈だけど、あのお爺さんに聞いてみましょう」
中折帽を被り、杖をついて小腰をかがめた爺さんが前を歩いていた。振り返った爺さんの顔は、後ろ姿とは全く違い、艶のある浅黒い彫の深い顔だった。
「向こうの呉服屋を右に曲がってすぐだよ。能楽堂のお客さんかネ」
能楽堂は屋根付きの門をくぐった奥にあった。さほど広くない玄関に盛装した女性や背広姿の男たちが、隣を気使いながら挨拶を交わしていた。
客席の入り口に文机を置いて中年の切符切りの男が座っていた。小さなバンフを渡しながら「壁に沿って廊下を進みますともう一つ入り口があります、そちらからどうぞ。二階席もございます」京都弁の語調が、はるばる訪れた京都を想わせた。
廊下の突き当りに売店があった。壁際に長椅子が置いてあり、客が抹茶を啜っていた。お茶を点てて客に振る舞う、珍しい光景だった。売店の外に小さな池があり錦鯉が群がっていた。池は廊下の床下まで広がっているようだった。やはり京都だなと桂馬は思った。
客席は段差が付いた桟敷だった。客は小さな薄い座布団に座り、お喋りに余念がなかった。同好の顔見知りが多いのだろう。新宿の寄席、末広亭の雰囲気だナと桂馬は思った。
「ここにしましょう。」温子が最後列の通路沿いの席を指さした。
「前の方、二つくらいは空いてるよ」
「いいえ、“芦刈”だけ見て帰ります。入り口に近い方が都合いいでしょう?」
見慣れた舞台とは全く違い珍しい構造だった。壁際に役者が登場する花道の様な通路があり、その先に枡形の舞台が突き出ていた。舞台を客席が半円形に囲む形だった。幕は通路の奥にあり舞台には無い。古い様式なのだろうが、斬新な構造は驚きだった。背景に古木の松が描かれていた。一面に黒ずんで、重ねた時を思わせ、黒ずんだ松の緑に重みがあった。温子が耳打ちした。
「亀しゃん舞台の右奥に井桁が見えるでしょう。あれね、「菊水の井戸」と云うの。ここは千利休の師匠、武野紹鴎の屋敷跡だって」桂馬も耳打ちで
「へえ~、舞台装置の一部かと思った。先の戦争で京都は焼けなかったもンね。だから古いものが残ってるんだ。気違い戦争でもアメリカに正気な人がいて古都の京都を助けたんだネ。それにしてもよく知ってるネ」
「必死で調べたの。亀しゃんに自慢しようと思ってフフフッ」
幕の奥から笛の音が静かに流れた。続いて鼓の小気味よい音が唱和するように聞こえて来た。客のざわめきが徐々に消えて行った。
「お調べというそうよ。それぞれの楽器の調子を見ンだって。でも今では開演の雰囲気作りになったようヨ」
幕の隙間から現れた囃子は笛と小鼓と大鼓三人だけ、三味線など弦楽器はなかった。三つの楽器だけでドラマを支える演奏ができるのだろうか?
鋭い笛の音律が淀んだ空気を貫いた。三つの楽器から放射される直線的な鋭い音律は経験したこともない異次元に桂馬を誘った。
幕が上がり面を着けた女と、付き人だろう男二人が現れた。男の姿はテレビで見る時代劇の姿で珍しくはなかったが、女の姿が異様だった。昔の日本の女の衣裳なのだろう。日本人でありながら異様に見えた事が不思議だった。
「亀しゃん、亀しゃん!二番目の人、能楽堂を教えたお爺さんヨ」
「まさか、あの爺さん杖ついて、よぼよぼだったよ」
「いいえ、間違いありません。あの顔は一度見たら、こびり付く顔です。近づいたらよく見て」
まさしくあの老人だった。火事場の怪力というのもあるそうだ。人が緊張すれば能力以上のものが現れるという。能は緊張の芸能なのだろう、桂馬に緊張が沁みはじめた。
 セリフは昔の言葉だ、分かり難いだろうと予想していた。節をつけて謡うところは猶更理解し難かった。テレビなどに登場する歌舞伎など、古典芸能のセリフも同じように古いが、顔や体を過剰なまでにも使って表現するので何となく理解できる。
 能は全く違った。直線の動きだった。夫婦の情愛の甘美な空気は薄かった。エッセンスだけが突き刺さった。

桂馬は温子に促されて立ち上がったが異次元の世界から抜け出られないままだった。
「亀しゃんどうしたの。眠いの?無理もないわよね、初めてのお能だものね」
「何か訳の分からない、得体の知れないものが居座ってる」面白かったとか感動したとかとは違う今まで経験しとことがない不思議なものに包まれたのだった。
「まだ時間があるので四条通りで母にお土産を買います」
桂馬は化粧品屋の前で待った。派手なビニール袋を桂馬の前に突き出しながら温子はニコニコ顔で店から出て来た。
地下鉄の改札口は雑踏だった。
「あら、大変。カメラ、お店に置いて来ちゃった。急いで行ってきます。ここで待てて」
「いや、僕が行って来る。ここで待ってて、と云いたいがきっとソワソワ、ウロウロで迷子になると思う。京都駅の新幹線のホームで待ってて。五号車だよ。地下鉄の二つ目の駅が京都駅。五条、京都駅、乗り越さないで」
 新幹線のホームはかなりの混雑だった。温子はバッグを前に向こうを見つめていた。
「何、見てるの?」
「あら、亀しゃん、、、ありがとう、ありがとう!」
いきなり温子が桂馬の両手を掴み引き寄せた。茫然と立ち尽くす桂馬から、雑踏の人々の顔も消え、温子の唇のほのかな温かさが、すべてを桂馬に伝えた。
つづく
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