FC2ブログ
10.12
Sun
zansho_141012.jpg

新潟県雨飾山の残照 2014年7月31日写す  

【前回、卒業証書(二)のあらすじ】
桂馬は妻、温子に、これから第二の人生を迎えるのだからと、家事の責任を解除する“卒業証書”を渡しその理由について話す。その理由は桂馬の生い立ちにあるといい、物心がつき始めた、幼年時代の思い出から話しだした。


母の八十三才のお祝いを家族で祝って一週間ほど 、母が入院したと姉、曜子から電話があった。たいしたことはないようだが年も年だから精密検査がてらに入院させたと姉はいった。次の日の朝、温子に急き立てられて新幹線に乗った。病院には姉が付き添っていた。母はたいしたことはないのに曜子に無理矢理に入院させられたのよ、と笑顔で二人を迎えた。その笑顔に二人は安心した。
温子は「ハイお母さんの好物、大心堂のカミナリオコシ。動転してたのでこれくらいしか思いつきませんでした。売店もまだ開いてないのが多くて」とビニール袋ごとベッド脇の棚においた。
「ありがとう。年をとると下町の味がいちばんね」[お母さんには堅くない?」「砕いて食べてもお茶に浸してもおいしいよ」と微笑み返した。
姉は「あと二三日入院して精密検査をしていただくの。看護師さんの話では軽い貧血ではないかというけど念には念を入れないとね、年だから。急にうずくまったのよ。びっくりしたわ。昨夜はあまり眠れなかったのよ、温子さん気晴らしに付き合って」と温子の返事も待たずに桂馬に向き直り「温子さん借りるわよ、色々話があるんだから」温子も「ハイハイお付き合い致します。安心したら気が軽くなりました。色々お話しましょう」温子は笑いながら桂馬に「あなたの悪口もでるかもよ」二人は笑いながら出て行った。

桂馬は母と二人きりになることが、久しくなかったせいか、なんだかきまりがわるく何を話していいか戸惑った。
桂馬は立ち上がり窓の外を眺めながら「僕に何か話して置きたいと言ってたよね、今思い出したんだよ」と母を振り返った。「そうよね。あれから数年経つね。曜子とお前のことなんだけど、わたしも急に年をとってね、曜子に面倒かけてばかりなの。曜子がいなければ生きていけないんだよ。今お前にこんな話をしていいか迷っていたんだけど」母は言葉をきり、しばらくしてから「だけどね、お前達も不思議に思ったとおもうけど、曜子とお前が成長するまで、わたしがお前達にしたことだよ。後々のためにもきちんとしておかないとね」母は桂馬の顔ジッと見つめた。それは若い頃の母の眼差しだった。

母の名は菊子といった。母は父と結婚して三年、子供が出来なかった。父は漁業組合で働いていた。理事長の信頼が厚かった。実家は小さな旅館を営んでいた。忙しいとき母は呼び出されて手伝った。旅館の仕事はかなりの重労働だった。ようやく重労働にも馴れ始めた頃、父の母親トシは、これからはどんなに忙しくても手伝わなくてもいいようにするから、と云った。突然だったこともあり、菊子はトシの真意を計りかねて戸惑った。十日ほどして菊子はトシに呼び出された。
トシは柔和な顔で菊子を迎えた。今まで見たこともない顔だった。菊子は咄嗟に“何かが起こる”と直感した。トシの膝には一才ほどの女の子が座っていた。ひどく瘦せていた。生えそろっていない頭に小さな赤いリボンが乗せてあった。青白いが整った小さな顔に大きな目が光っていた。誰かに似ていると菊子は思った。
「お前にたって頼みがあってね」トシは切り出した。「この子を育てて貰いたいのだよ」トシは女の子の小さな手を揉みしばらくたってから「お前に子ができないからという訳ではないのだよ、ちょっと訳があってね、今は話せないがその時が来たらきちんと話すから。どうだろう黙って引き受けてくれないかねエ。ほんとに虫のいい話だが」トシの顔は今まで見たこともない程、情けない顔になっていた。「今すぐ返事するのは勿論無理だろう。実家に帰って相談してみてくれないかね」トシは女の子を下におろして頭を下げ「お前もお願いしなさい。曜子といいます」と女の子の頭に手を置いた。
菊子は考える力が萎えてしまっていた。「はい、そうさせて頂きます」とだけ答えた。家に帰り着くまで頭の中は空ろだった。その夜、夫春彦の帰りは遅かった。菊子は夫に、トシに頼まれた事だけを伝えた。夫は「そうか、すまないね」と横を向き兵児帯を緩慢にしめた。菊子は夫の「すまないね」に意味があるのか、考えないよう心に言い聞かせた。

菊子は二、三日自分を失っていた。育てるのか、断るか、断ったその後のこと、この家を出るか、これらの事が菊子の空白の頭のなかにちぎれ雲のように浮かんでは消え消えては浮かんだ。
両親に相談して決めようとは思わなかったが自然に足は実家にむかっていた。いつものようにと思っても肩は落ち目は下をむく。両親は怪訝そうに菊子を迎え、母は「何かあったのかい」と菊子の顔をのぞき込んだ。菊子はトシの頼みの要点だけを話した。
「へえ、あの謹厳実直な仏様がねえ」母は大げさに目を剥いた。「春彦の子かどうかは分からないのだろう?どんな事情の子か時期が来たら話すと云ってるではないか」父は母に向き声を少し荒げたが「男の下半身は人格と関係がないと云うからな」とぼそっと呟いた。「それで、どうするんだ」父の声は優しかった。
どうするのか考える余裕も無かった菊子は「はい育てます」と答えが勝手に口を突いて出た。「それしか道は無いだろう」。「ほんとうに」母は急に首をさげ息を飲み込み「ないのかね」ほとんど涙ごえだった。
「お前も知ってるだろう、鳩居。鳩は不器用で巣作りが下手なんだ、だからカササギの巣をあてにするんだそうだ。女は一人では生きて行けない、だから夫の巣が頼りだという例えだよ。とくにお前の場合は」父の「お前の場合は」が菊子の胸にぐさりと突き刺さった。夫婦の絆は“子”だけなのだろうか、菊子は深い淵に沈んで行く自分を思った。菊子の沈んでいく表情に父は「東京の銀座の鳩居堂にはカササギの大きな銅像が鎮座しているそうだよ。顕彰像。」と冗談をいった。「ご飯、食べていくかい。今日も春彦さん遅いのだろう」母の目はうるんでいた。

菊子と二つ違いの姉が二本松の岳温泉に嫁いでいた。二人は幼い時から年頃になるまで何時も一緒だった。幼い二人はいつも手をつないで歩いた。「いつもニコニコ、かわいいネ」近所の人がよく声をかけた。
内気な菊子と違い活発な姉だった。
いつもより早く帰ってきた夫、春彦に菊子は「二,三日暇をください。二本松に行ってきたいのです」と頼んだ。「いいよ、あとは心配しないでいいから、ゆっくりしてくるといいよ」いつもの穏やかな声だった。
 二本松の駅に着いたのは昼を過ぎていた。安達太良山が青くかすみ美しかった。迎えに来た姉は屈託なく饒舌だった。今の菊子にはそれが救いだった。「お母さんから手紙、貰ったわよ。たいへんね」姉のおしゃべりは久しぶりに会ったせいか家に着くまで続いた。姉はお茶の支度をしながら「男もいろいろね、うちの旦那みたいに温和しいだけが取り柄もいれば、安達太良山の高村光太郎さんのような人もいる。わたしも智恵子さんになってみたかったわよ」「わたしもネ結婚前、心に秘めた人がいたのよ。でも夫婦って不思議ね。一緒に生活しているうちに光太郎さんとレベルは違うけど“好き”みたいになっていくのよね。心に秘めた人の、影も形も消えてしまって思い出すこともなくなったわ」とため息を大げさについて「今温泉は端境期、暇なのよ。ゆっくりしていってよ。そうそう、汽車の長旅、疲れたでしょう。露天風呂、入って、誰もいないから」姉はお盆を胸に抱いて出て行った。
露天風呂から眺める景色が菊子の心を洗った。湯船の上に、せりだしたモミの木の枝の向こうに山が連なり雲を背負っていた。父の言葉がよみがえった。「そうするしかない」。だったら事実を詮索しても、知っても仕方がない。心の闇は深くなるばかりだ。そうだ明日、帰ってあの子を引き取ろう。
 次の朝、菊子は姉に自分の決意を話した。姉は驚いて「もう帰るの?お母さん、しばらく泊まるからよろしくねって云ってたよ」菊子は姉の引き留めも忠告も上の空に一番のバスを待った。
駅前で菊子は、おんぶ紐を買った。赤いのをと思ったが黒だけだった。
菊子の姿を見て義母トシは大仰に驚いて見せた。「曜子を迎えにきました」「一つだけお願いがあります。この子の事は、私にも外の誰にも話さないで欲しいのです」義母は怪訝そうに菊子を見つめ「そのうち包み隠さず、きちんと説明しよう、それが人の道だと思っていたけど、ほんとにそれでいいのかい?」「分かった。知りたい時が来たら云っておくれ。その時まで封印しておく事にするよ」義母の顔に安堵の色が見えた。菊子は義母に手伝って貰い曜子をおんぶした。[新しいお母さんに早くなついておくれ。新しいお母さんは優しいからね]トシは泣いていた。「取りあえずこれだけ持って帰って」義母は浴衣で縫ったオシメ数組と使い掛けのミルクの缶の入った袋を差し出し「まだミルクを欲しがるんだよ」と手渡した。曜子は思ったよりも遥かに軽かった。異常な軽さは菊子の胸に異常な、複雑な思いを抱かせた。

母、菊子のとつとつとした話が途切れた。「少し疲れたよ。横になっていいかい」母は横になってベッドの横に腰掛けた桂馬に顔を向け「それから二年少し経ってお前が生まれてね、お前には悪いが私はあまり嬉しくなかったんだよ」曜子を自分の子として育てる決心をしても、いろいろな心の葛藤は続き、他人の目も無視できなかった。母はこのことのみの心の重圧を負う生活を送った。生まれて来る子は実の子だ。愛情が偏ることが怖かった。
「お前達二人にできるだけ距離を置かせたのも、着るものや食べ物を差別したのもそのためだったんだよ」母は天上を見上げて「曜子が私の子ではないことを気が付かない訳がないんだよ。だけどあの子はそのそぶりも見せなくてね、その苦しみ悩みは、私の比ではなかったと思うと、、、」母の頬を涙が伝った。
「曜子は優しくて頭のいい子だからね。いつか話した、曜子に作ってあげた絵本、今でも大事してるのだよ。それなのに、、、お前達に済まないと思ってね」 母は思春期を前にした曜子にじつの母の面影を、いい夢にして苦しみを乗り切るよう願ったのだった。
桂馬はうつむいた。母の苦しんでいた頃の顔と温子の顔が重なった。苦しむ温子の顔など見たくないと桂馬は思った。

ドアの外から賑やかな声が聞こえて来た。姉と温子が帰ってきたのだ。「はいお土産。これは飲んべえ桂馬のウイスキー。これは大好きなお母さんの桑の実のジャム。鉄分たっぷり。貧血特効薬」四人は声を上げて笑った。
つづく


comment 0
back-to-top