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02.07
Sat
150207_1.jpg
南房総 沖ノ島から望む太平洋の残照 2015年1月23日写す

一部分書き直しました。内容が主題から離れていた部分があったからです。

はじめに:砂内桂馬。団塊の世代生まれ。桂馬に老いの前兆が現れたのは或る夏の朝だった。妻、温子の面影に誘わ れ、二人の想い出の地、信州の車山に彼の姿があった。衝動に駆られたのだった。想い出から覚めた桂馬を焦燥感と空虚感が襲った。以来公園のベンチや路傍の石垣にもたれる彼の姿があった。想い出が去った後の桂馬の姿だった。虚空に向けられた彼の空ろな視線を人々は哀れむかのように見て通りすぎた。
        

桂馬の祖母の旅館は歓楽街に近かった。夕方近くには、ここで働く女達が洗い桶を抱え下駄を鳴らして銭湯に通った。女達は表で遊ぶ桂馬に声をかけた。「坊や、可愛いね」女達の後ろに脂粉の香りが漂った。祖母や母にはない匂いだった。
「おばあちゃん、おねえちゃん、いい匂いがしたよ」帳場でタバコを吸っていた祖母はタバコの灰を落としながら笑い出した。
「あまえも男かね。五歳の男かね」
笑う祖母の、数本並んだ金歯が光った。桂馬は笑う祖母が怖かった。
祖母は急に真顔になって、金歯の口をきっと結び目を剥いて、
「桂馬、大きくなっても、あのおねえちゃん達と遊んだらだめだよ」眼鏡の奥の目はしばらく桂馬を見据えていたが、また急に笑い出した。
桂馬はこの時のことを生涯忘れることが出来なかった。
祖母は桂馬を可愛がった。旅館の暇な時間によく桂馬を呼んだ。送り迎えは、まだ幼顔が残るお手伝いの少女、フミだった。フミと桂馬はいつも手をつないで歩いた。握った手を振りふり歩いた。歌は何時も「お手々つないで」だった。桂馬は時々フミの顔を見上げた。小さな丸顔に、澄んだ大きい目がきれいな娘だった。
「フミねえちゃん、どうしてあのおねえちゃん達と遊んではいけないの?」
「う~ン」フミは少し考えてから、
「わかンないナ、お母さんに聞いて」桂馬の顔をのぞき込みニッコリ笑った。
歌を聞きつけた母は玄関を出て待っていた。母はフミに小銭を握らせて、「ありがとう」とフミの背中に四、五回手を振った。桂馬も振った。
フミは振り返り「ありがとうございました」とていねいにお辞儀をした。きれいな姿だった。
「お母さん」桂馬は母の背中に呼び掛けた。
「おばあちゃんがネ、ぼくが大きくなっても、おねえちゃん達と遊んでは駄目だって。どうして?」
「え?どこのおねえちゃん?」
「おばあちゃんの家の前を通る、きれいなおねえちゃん。いい匂いがするよ」母は桂馬をジット見つめ、しばらくして、
「いま忙しいから後で」と台所の暖簾にきえた。
母は桂馬との遣り取りに慎重だった。それは桂馬が幼い時だけで長ずるに従って影をひそめた。桂馬には母の不思議な部分の一つだった。
その晩、母は桂馬の枕を引っ張った。
「桂馬、きれいなおねえちゃんのことだけどネ。おばあちゃんの家の近くにいる。きれいにお化粧して、いい匂いの。おばあちゃんが云うように、大人になっても遊んだらだめ。忘れたら駄目よ。何時までも」
「どうして駄目なの?おねえちゃん達、悪いい人?」
「そうじゃあないのよ。み~んないい人よ」
「だったらどうしてだめなの?」
「自分が悪い人になるから。今は小さいから桂馬には分からないけど大きくなったら分かるよ」

その朝、桂馬は遅くまで目が覚めなかった。
「桂馬起きなさい。フミねえちゃんが迎えにきますよ」襖の外から母の声がした。
「今日は曜子姉ちゃんと行きたい」
「曜子は学校です。とっくに学校に行きました」母の返事は素っ気なかった。
桂馬が朝ご飯をすませた頃、玄関が勢いよく開いた。
「おはようございます」元気な声が聞こえ、身の丈ほどの篠竹の竿をかついだフミがニコニコしながら立っていた。
母はエプロンで手を拭き拭き玄関に向かい
「あらどうしたの?フミちゃんその格好?」
「今日は暇なので、どこかで遊んで来なさいって、おかみさんに許可をもらいました。けど、わたしまだ友達がまだいません。桂馬ちゃん貸して下さい。ザリガニ釣りします」フミは竿を突きだして見せ微笑んだ。
「あらいいわね。お願いします。大漁だといいわね」母も笑いながら応じた。
川まではかなりの道のりだったが二人のおしゃべりは尽きなかった。
「フミ姉ちゃん、ちっとも匂いしないね、どうして?」
「さあ、どうしてでしょう」
「お祖母ちゃんも少し匂いするよ。お母さんも少し」「お母さんがお使いでなかなか帰ってこないときお母さんの着物に鼻、くっつけるの。やさしい匂いだよ」
川は浅く向こう岸に砂が盛り上がり草が茂り水面まで垂れ下がっていた。
フミは竿の先に木綿糸を結わえ付け、木綿糸の先にスルメの足を結び付けた。
「ハイできあがり。よ~し、おねえちゃんの手くらいの大物をつるぞ!」
勢いよく向こうへ投げ込み桂馬に竿を手渡した。
桂馬は竿を上げたり下げたり、ザリガニが食いつく暇がないのか、なかなか釣れなかった。
「あっ、カラス。見て」
フミが指差した。二羽のカラスが鳴き交わしながら飛んでいく。
「きっとお父さんカラスとお母さんカラスよね。赤ちゃんカラスが待ってるのよ、きっと。こんな歌、知ってる?」
「カラスなぜ鳴くの、カラスは山に、可愛い七つの子があるからよ」
「知ってる。この歌すき。ぼく上手だよ。隣のおばちゃん、ほめるよ」
「あらほんと。こんど聞かせて」
「いいよ。歌ってあげる」
「カラスはネ、とっても賢いんだよ。人間の言葉をしゃべるの。お兄ちゃんのお友達が、カラスを飼っていてネ、その子の名前が勝良っていうンだけど朝、カチュラ、オキナチャイって、勝良のお母さんの真似するの。そのカラスね、勝良のお父さんが山から赤ん坊カラスを捕まえてきたンだって。わたしのお兄ちゃん、それが羨ましくてね。わたしを連れてカラスの赤ちゃん、捕まえに行ったンだよ」桂馬の目が輝きだした。
「僕もカラスの赤ちゃん、捕まえに行きたい。ザリガニは止めて行こうよ」
ザリガニはまだ一匹も釣れていなかった。フミは笑いながら竿を上げエサを向こうへ投げ込みながら、
「無理、無理!カラスは怖いよ。命がけで赤ちゃん、守るンだから」
フミは兄に連れられてカラスの雛を捕まえに行ったときの恐怖が甦った。
フミには五才年上の兄がいた。フミの兄は優しい少年だった。いつもフミと一緒だった。カラスの巣は父から教わった。お寺の山道を通るとカラスが集まり、やかましく鳴き騒ぐことがあった。
フミの父は松の木を見上げ梢の方を指差し
「あそこにカラスの巣があるンだよ。近づくと頭をつつかれるぞ。近寄ったらダメだよ。カラスは子煩悩なンだ。」父は二人の顔を見比べて「お父さんだって、お前達を誰かがさらい来たら必死に闘うよ、カラスだっておなじだよ」
兄はカラスが生まれる時期は覚えていたが、カラスの怖さをそれほど信じていなかったのだ。
兄は友達をも誘わずフミだけを連れてお寺の山道へ向かった。
腰に竹の棒を差していた。
「兄ちゃん、その棒、何にするの」
「これか」兄は振り返り棒を抜き刀のように振り下ろしてみせ
「カラスが襲ってきたら、こうやってカラスをたたくンだ」
「カラス、かわいそうだよ」
「オレだってこわいンだよ。この棒のこと、勝良に教わったンだ」
松の木に近づく、とどこからともなく二羽のカラスが現れ忙しく飛び交い鳴き騒いだ。兄はフミを見て「よし」とうなずき松の木に登り始めた。カラスの鳴き声は更に烈しくなった。応援に来たのか数羽のカラスが混じり合い松の幹をつつき、周りの木の枯れ枝を折り兄に体当たりするかのように掠め飛び威嚇した。カラスはフミの頭上をも掠め飛んだ。フミは頭を抱えうずくまり絶叫した。
兄はカラスの子を捕まえられなかった。兄はフミに
「お前が、止めてと泣いて騒ぐから止めたんだ。怖かったからじゃあないぞ。カラスも可哀想だしナ」
フミは恐怖に震えながらも兄の優しさが嬉しかった。

 フミは釣り竿を放り投げて、幼い桂馬に、さも友達に話すかのように身振り手振りでカラスの恐怖を話した。フミの話は幼い桂馬に衝撃だった。フミの恐怖心は桂馬の心の奥底に沈着していった。
「後でわかったンだけど勝良のお父さん、カラスの赤ちゃん売るつもりだったの」「カラスの赤ちゃん高く売れるンだって」
「人間の言葉、喋らせるの?」
「うウン」フミは頭を大きく振り
「お化粧ハケを作るおじさんに売るの」「カラスの赤ちゃんのお腹の毛は柔らかくて上等のハケが出来るンだって」「お祖母ちゃんチの(家)の近くの、きれいなおねえちゃん達、みんな持ってるよ」
「そのカラスの赤ちゃんの毛でお化粧するの?」
「そう、だからきれいなの」
「だからいい匂いがするんだ」
「そうかもネ」
「カラスの赤ちゃん、毛、取られて痛いよね」
「死んでしまうの」
いつかどこかで見た、毛をむしられて吊された鳥の残酷な姿が脳裏に浮かび、幼い桂馬に衝撃が走った。

桂馬は、日常の生活にないメイク、例えば歌舞伎や演歌の歌手、芸者の映像などを見ると、祖母の家近くの、歓楽街の女性の脂粉が、カラスの恐怖と抱き合わせに甦り、胸を圧迫した。これがトラウマというものだろうと桂馬は思っている。









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01.12
Mon
150112.jpg
富士山の残照 武蔵境駅前スイングホール9階から写す。 平成27年1月11日
この話の要旨:
砂内桂馬。団塊の世代生まれ。桂馬に老いの前兆が現れたのは或る夏の朝だった。妻、温子の面影に誘われ、二人の想いでの地、信州の車山に彼の姿があった。想い出から覚めた桂馬を焦燥感と空虚感が襲った。以来公園のベンチや路傍の石垣にもたれる彼の姿があった。虚空に向けられた彼の空ろな視線の行方は「思い出」という「残照」が去った後の空虚だった。道を行く人々は哀れむかのように見て通りすぎた。

        
桂馬の祖母の旅館は歓楽街に近かった。夕方近くには、ここで働く女達が洗い桶を抱え下駄を鳴らして銭湯に通った。女達は表で遊ぶ桂馬に声をかけた。「坊や、可愛いね」女達の後ろに脂粉の香りが漂った。祖母や母にはない匂いだった。
「おばあちゃん、おねえちゃん、いい匂いがしたよ」帳場でタバコを吸っていた祖母はタバコの灰を落としながら笑い出した。
「あまえも男かね。五歳の男かね」
笑う祖母の、数本並んだ金歯が光った。桂馬は笑う祖母の金歯が怖かった。
祖母は急に真顔になって、金歯の口をきっと結び目を剥いて、
「桂馬、大きくなっても、あのおねえちゃん達と遊んだらだめだよ」眼鏡の奥の目はしばらく桂馬を見据えていたが、また急に笑い出した。
桂馬はこの時のことを生涯忘れることが出来なかった。
祖母は桂馬を可愛がった。旅館の暇な時間によく桂馬を呼んだ。送り迎えは、まだ幼顔が残るお手伝いの少女、フミだった。フミと桂馬はいつも手をつないで歩いた。握った手を振りふり歩いた。歌は何時も「お手々つないで」だった。桂馬は時々フミの顔を見上げた。小さな丸顔に、澄んだ大きい目がきれいな娘だった。
「フミねえちゃん、どうしてあのおねえちゃん達と遊んではいけないの?」
「う~ン」フミは少し考えてから、
「わかンないナ、お母さんに聞いて」桂馬の顔をのぞき込みニッコリ笑った。
歌を聞きつけた母は玄関を出て待っていた。母はフミに小銭を握らせて、「ありがとう」と帰って行くフミの背中に四、五回手を振った。桂馬も振った。
フミは振り返り「ありがとうございました」とていねいにお辞儀をした。きれいな姿だった。
「お母さん」桂馬は母の背中に呼び掛けた。
「おばあちゃんがネ、ぼくが大きくなっても、おねえちゃん達と遊んでは駄目だって。どうして?」
「え?どこのおねえちゃん?」
「おばあちゃんの家の前を通る、きれいなおねえちゃん。いい匂いがするよ」母は桂馬をジット見つめ、しばらくして、
「いま忙しいから後で」と台所の暖簾にきえた。
母は桂馬との遣り取りに慎重だった。それは桂馬が幼い時だけで長ずるに従って影をひそめた。桂馬には母の不思議な部分の一つだった。
その晩、母は桂馬の枕を引っ張った。
「桂馬、きれいなおねえちゃんのことだけどネ。おばあちゃんの家の近くにいる。きれいにお化粧して、いい匂いの。おばあちゃんが云うように、大人になっても遊んだらだめ。忘れたら駄目よ。何時までも」
「どうして駄目なの?おねえちゃん達、悪い人?」
「そうじゃあないのよ。み~んないい人よ」
「だったらどうしてだめなの?」
「自分が悪い人になるから。今は小さいから桂馬には分からないけど大きくなったら分かるよ」

その朝、桂馬は遅くまで目が覚めなかった。
「桂馬起きなさい。フミねえちゃんが迎えにきますよ」襖の外から母の声がした。
「今日は曜子姉ちゃんと行きたい」
「曜子は学校です。とっくに学校に行きました」母の返事は素っ気なかった。
桂馬が朝ご飯をすませた頃玄関が勢いよく開いた。
「おはようございます」元気な声が聞こえ、身の丈ほどの篠竹の竿をかついだフミがニコニコしながら立っていた。
母はエプロンで手を拭き拭き玄関に向かい
「あらどうしたの?フミちゃんその格好?」
「今日は暇なので、どこかで遊んで来なさいって、おかみさんに許可をもらいました。けど、わたしまだ友達がまだいません。桂馬ちゃん貸して下さい。ザリガニ釣りします」フミは竿を突きだして見せ微笑んだ。
「あらいいわね。お願いします。大漁だといいね」母も笑いながら応じた。
川まではかなりの道のりだったが二人のおしゃべりは尽きなかった。
「フミ姉ちゃん、ちっとも匂いしないね、どうして?」
「さあ、どうしてでしょう」
「お祖母ちゃんも少し匂いするよ。お母さんも少し」「お母さんがお使いでなかなか帰ってこないときお母さんの着物に鼻、くっつけるの。やさしい匂いだよ」
川は浅く向こう岸に砂が盛り上がり草が茂り水面まで垂れ下がっていた。
フミは竿の先に木綿糸を結わえ付け、木綿糸の先にスルメの足を結び付けた。
「ハイできあがり。よ~し、おねえちゃんの手くらいの大物をつるぞ!」
勢いよく向こうへ投げ込み桂馬に竿を手渡した。
桂馬は竿を上げたり下げたり、ザリガニが食いつく暇がないのか、なかなか釣れなかった。
「あっ、カラス。見て」
フミが指差した。二羽のカラスが鳴き交わしながら飛んでいく。
「きっとお父さんカラスとお母さんカラスよね。赤ちゃんカラスが待ってるのよ、きっと。こんな歌知ってる?」
「カラスなぜ鳴くの、カラスは山に、可愛い七つの子があるからよ」
「知ってる。この歌すき。ぼく上手だよ。隣のおばちゃん、ほめるよ」
「あらほんと。こんど聞かせて」
「いいよ。歌ってあげる」
「カラスはネ、とっても賢いんだよ。人間の言葉をしゃべるの。お兄ちゃんのお友達が、カラスを飼っていてネ、その子の名前が勝良っていうんだけど朝、カチュラ、オキナチャイって、勝良のお母さんの真似するの。そのカラスね、勝良のお兄ちゃんが山から赤ん坊カラスを捕まえてきたんだって。わたしのお兄ちゃん、それが羨ましくてね。わたしを連れてカラスの赤ちゃん、捕まえに行ったんだよ」桂馬の目が輝きだした。
「僕もカラスの赤ちゃん、捕まえに行きたい。ザリガニは止めて行こうよ」
ザリガニはまだ一匹も釣れていなかった。フミは笑いながら竿を上げエサを向こうへ投げ込みながら、
「無理、無理!カラスは怖いよ。命がけで赤ちゃん、守るンだから」
フミは兄に連れられてカラスの雛を捕まえに行ったときの恐怖が甦った。
フミには五才年上の兄がいた。フミの兄は優しい少年だった。いつもフミと一緒だった。カラスの巣は父から教わった。お寺の山道を通るとカラスが集まり、やかましく鳴き騒ぐことがあった。
フミの父は松の木を見上げ梢の方を指差し
「あそこにカラスの巣があるんだよ。近づくと頭をつつかれるぞ。近寄ったらダメだよ。カラスは子煩悩なんだ」「お父さんだって、お前達を誰かがさらい来たら必死に闘うよ、カラスだっておなじだよ」
兄はカラスが生まれる時期と場所を覚えていたのだ。兄は友達をも誘わずフミだけを連れてお寺の山道へ向かった。
腰に竹の棒を差していた。
「兄ちゃん、その棒、なににするの」
「これか」兄は振り返り棒を抜き刀のように振り下ろしてみせ
「カラスが襲ってきたら、こうやってカラスをたたくンだ。護身のボウ」
「カラス、かわいそうだよ」
「オレだってこわいンだよ。この棒のこと、勝良に教わったンだ」
松の木に近づく、とどこからともなく二羽のカラスが現れ忙しく飛び交い鳴き騒いだ。兄はフミを見て「よし」とうなずき松の木に登り始めた。カラスの鳴き声は更に烈しくなった。応援に来たのか数羽のカラスが混じり合い松の幹をつつき、周りの木の枯れ枝を折り兄に体当たりするかのように掠め飛び威嚇した。カラスはフミの頭上をも掠め飛んだ。フミは頭を抱えうずくまり絶叫した。
兄はカラスの子を捕まえられなかった。兄はフミに
「お前が、止めてと泣いて騒ぐから止めたんだ。怖かったからじゃあないぞ。カラスも可哀想だしナ」
フミは兄の恐怖心よりも優しさを思った。
 フミはカラスが子を思う心を桂馬に教えたかったからだけではない。フミはあの頃、今の桂馬の年頃だったし、兄や父の優しさが甦ったからだ。

フミは釣り竿を放り投げて、幼い桂馬に、さも友達に話すかのように身振り手振りでカラスの恐怖を話した。フミの話は幼い桂馬に衝撃だった。フミの恐怖心はいつのまにか桂馬のものになっていった。

桂馬は、日常の生活にないメイク、例えば歌舞伎や演歌の歌手、芸者の映像を見ると、祖母や、歓楽街の女の脂粉が、カラスの恐怖と抱き合わせに甦り、胸を圧迫した。これがトラウマというものだろうと桂馬は思っている。

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