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03.15
Sun
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2015年1月23日房総 野崎灯台で写す、伊豆大島三原山の残照

桂馬に能楽師の友人がいる。能に「次第」というのがあると彼に教わった。三つの短い句で、展開する物語を総括または暗示するという。プロローグを知らない人は少ないと思う。両方とも目的はおなじ。「次第」は「プロローグ」より遥かに古い。偉大な先人を想い「次第」を書こうと思う。

次第
砂内桂馬。団塊の世代。仕事を退役して久しい。今は「思い出」に生きる。彼にとって「思い出」は残照なのだ。「残照」は突然、衝撃的にやってきて輝き、そして去る。「残照」が去ったあと、「空虚」が桂馬を襲うのだった。

「初恋」という言葉を聞くたびに桂馬の背筋が硬直した。二十代の始めに経験した、桂馬には衝撃的な事件が連動して思い出されるからだった。
幼稚園の先生や学校の先生に初恋をしたとか、初恋は何歳だったとか、活字で見たり聞いたりする。そのたびに硬直した。幼い頃、祖母のお手伝いのフミや中学や高校の同級の女の子に親しみを感じることはあった。それは人間として当然持っている感情で初恋とは異質のものだと思っている。
初恋という言葉には甘美な響きが伴う。だが恋は異性に対する関心の高まりだろう。桂馬の経験もまさしく初恋の部類だったのだ。桂馬の硬直の原因でもあったのだ。

桂馬と久徳は肩を並べ百軒店の坂を登った。敷き詰められたレンガは、すり減ってあちこちに窪みができて歩きにくかった。久徳は立ち止まり
「あの突き当たりの露地を入った左側のところだ」と指をさした。
露地は人がようやくすり違えるほどに細かった。バアーがずらりと並んでいた。
開店の準備だろうか道路側にドアを開け薄い布を頭に被った女がタバコを片手に掃除をしていた。カウンターと背もたれのない一本足の丸いイスが一列に並んでいるのが見えた。
「この露地のバーは“暴力バー”で有名なんだ。うっかり酔っぱらって迷い込んだら、中に担ぎ込まれて身ぐるみはがされるンだ。気をつけろヨ。だけどお前は何時も学生服だから大丈夫だ。ホッペの赤い学生は狙わないよ。ハッハッハ」久徳は空を見上げて笑った。
「あれだ」久徳の指差す向こうに「ライオン」のカンバンが見えた。
「電話でも話したが、あの名曲喫茶の再生装置は東洋一なんだ」とにかく入ろう。
店の中は薄暗かった。学生らしい女性三人と中年の夫婦のような二組だけで、広い店はガランとしていた。
「あそこがいい」久徳は女性三人の斜向かいを指差した。店主だろうか改まった服装の年配の男が「いらっしゃいませ」と小声で頭を下げた。
「コーヒー二つ」久徳が指を二本立てて突きだした。
「どうだ、いいだろう。生の演奏に限りなく近いンだ」久徳は腕を組んで目を閉じ俯いて聞き入った。
クラシック音楽もコーヒーも桂馬には縁遠かった。
「おやじの尺八とは百八十度違うな」呟きがかすかに唇を動かした。
桂馬の父親の尺八は、賛竹流免許皆伝の腕前だった。暇なときは、職場や自宅で教えていたほどだった。謹厳実直の中に茶目っ気もあった。桂馬が好きなところでもあった。名曲を吹くからと人を正座させ「枯れススキ」吹いて皆を笑わせた。「枯れススキ」は昭和初期に流行った演歌だったから。

桂馬は東京の大学に通っている。母は行かせたくなかったようだったが父が熱心に勧めた。
五反田で父の弟が小さな時計屋を営んでいた。桂馬はこの叔父の家に下宿した。二階が桂馬の部屋だった。
窓の外に洗濯干し場があって、窓から簡単に降りられた。近くに神社があって杉やケヤキの巨木がそびえ立っていた。桂馬は気が滅入った時など気分転換に洗濯場に降り、神社の方に向かい両手を空に突き上げ大きく“伸び”をして欠伸をするのが常だった。
母と姉と登った田舎の塩竃神社の急峻な石段が思い出された。
隣の部屋には叔父の一人っ子、左千夫がいた。左千夫は証券会社に勤めていた。ほとんど毎日同じ時間に出勤、同じ時間に帰宅した。食事や風呂以外は机に向かい文庫本を読んでいた。
「久徳に気をつけろ。あやつは遊び好きだから」左千夫の口癖だった。この家に来て間もなく左千夫と桂馬は兄弟のように心を通わせていた。
何の面白味もない左千夫と“遊び好き”な久徳がどうして友達になったのか不思議だった。二人は大学以来の友達だった。久徳は時々左千夫の部屋に来た。部屋から聞こえてくる大きなはなし声と大きな笑い声は久徳のものだけだった。
 久徳の父親は亀戸で従業員5,6人の小さなメリヤス工場を営んでいた。久徳は大学を卒業したら家業を継ぐことを条件に父親を説得して進学しが、家業を継ぐ気など全くなかった。彼は外交官を目指して国家試験に三度挑んだが失敗した。
「オレに外交官は荷が重すぎ。メリヤス屋の兄ちゃんがお似合いだよ」久徳は時々自虐的に話したが悲壮感はなかった。久徳はメリヤス屋を継ぐ決心をしたが働きぶりは真面目とは云えなかった。

店は異様に静だった。桂馬には聞き慣れない旋律だったが甘い空気に眠気を催した。
突然久徳は座り直り桂馬に顔を近づけ
「おい桂馬。お前知ってるか。左千夫には彼女がいるンだよ、オレだっていないのに」とささやいた。
「彼奴はね、山が好きでね、彼女はワンゲル部の後輩なンだ」
「彼奴の初デートについて行ったンだよ。無粋なこと嫌だと断ったら、きまり悪いからついて来いだって。後楽園で三人同じ百五十円のラーメン食べて。高くて不味いンだよあそこのラーメン。食べ終わったらオレに耳打ちして“お前帰れ”、追っぱらわれたンだよ」久徳はニヤリと笑い
「彼女、丸顔の色白で結構イカスんだよ。山でもネ、薄化粧して歯を磨くンだって」
「えっ、山では化粧、歯磨きご法度?」
「そうらしい。左千夫曰く、人間本来の姿に戻るンだって」
「まるでマタギか山伏ですね。山男は蛮カラを目指すンですか。それもいいですね」
「それでいて薄化粧、歯磨きの彼女のオノロケをするンだよ。あの紋切りの左千夫がだよ。そんな彼女を好きになるなんて、矛盾してるよネ」久徳は言葉を切り両手を頭の後ろで組み椅子に深く凭れ
「でもナ、恋は全てに優先するからナ」
「謹厳実直な中に剽軽な所もある、奴の魅力だよ。人間、短所と長所は同じものだナ」“謹厳実直”“ひょうきん”桂馬は父を思い出し、血の繋がりを思った。
こんな場所でこんな話題を出すのも久徳らしいと思いながら、この人は本当にクラシックが好きなのだろうか、ポーズで聞いているのではないのだろうかと思った。

この時“事件”が起こったのだった。人間、些細な事で人生が変わる事もあり得るものだと後に桂馬はつくづく思ったのだ。
斜向かいの女性三人が帰り支度を始めた。左手にハンドバッグとコートを持ち通路に出た。後ろの女性は伝票を右手に持ち続いた。後ろの女性が急によろめいた。コートが久徳のコーヒー茶碗を払った。茶碗は床に落ち派手な音を立てて割れた。少し残っていたコーヒーが久徳の上着を濡らした。三人は振り返り叫び声を上げ硬直し、震える手でハンカチを取りだした。
「大丈夫、大したことはないよ」久徳はハンカチ受け取り上着を拭いた。
「ほらほら、怖いおじさんが布巾持って来るよ、早く逃げた方がいいよ」
女性達は何度も何度もお辞儀しながらレジに向かった。
 久徳は店員が持ってきた布巾で丁寧に上着を拭きながら
「俺たちも出ようか。折角の名曲も腰を折られたからナ」
久徳が真面目に聞いていたのは最初の短い時間だけで後は従兄弟、左千夫の噂話だけだったのだ。やはりクラシック好きはポーズだったのではないかと可笑しかった。
久徳は桂馬を後ろに、足早に道玄坂を下り左の露地に入った。突き当たりに「ライオン」と書いたカンバンが見えた。
「えっ。ここもライオンですか」桂馬は驚いた。青い大きなテントは喫茶店に似つかわしくなかったからだ。
「違うンだ。ビアホールだよ。テント張りの店が若者に人気なンだ。親父から小遣せしめたから奢るよ」
店はほぼ満員だった。
「ここでは大声で喋っても大丈夫だ」話題はまた左千夫家族の話になっていった。
「彼奴の親父さんがまた変わっているよネ」念を押すように桂馬を見て
「オレが遊びに行くと、“おう”と云うだけ、愛想なし。マ、その方が気楽だけどネ」
「あれだけ無愛想でも商売が成り立つンだから。ま、おばさんのおかげだネ。夫婦とは不思議だネ。神様の仕業かネ。天の配剤と云うやつかネ羨ましいネ」久徳は快活に笑った。
左千夫の母は父親とは対照的に社交家だった。総花教の信者だった。布教促進の会合や教会に欠かさず出向いた。誕生日や入学の子を持つ信者を目ざとく見つけ時計を売った。
口の悪い仲間が
「貴女の信心は一に時計教、二に総花教よね」とからかった。
「そうよ“衣食足りて礼節を知る”よ」と応じ全く気にしなかった。
左千夫家族の話題は尽きなかった。
「おじさん、酒が好きだよネ。肴が変わってるンだ。おばさん、ボヤいてたナ。“わたしの作ったオカズ食べないで自分のだけ自分で作る”だって。“じゃあ皆ンなの分おじさんに作って貰ったら”と云ったら、“冗談じゃあないわよ、あんなものとても食べられないわよ”だって」
叔父、左千夫の父は午後三時近くになるとそわそわし始め、手早に店の片付けをして買い物籠をぶら下げ商店街を物色した。酒のつまみが変わっていた。変わった食材の代表、まず鶏の手羽。それも先端の三角形の所だけ。丁寧に炭火で焼き、油で揚げてレモン醤油で食べる。次が鯛の中骨。スプーンでこれも丁寧に削ぎ“中落ち”を作る。傍目にも彼の作るつまみは変わっているのは歴然だった。「旨い物だったらオレはメンツに拘らない」彼の口癖だった。
「人の幸せって何ンだろうな。おじさん、自分流に生きてる。オレなんかメリヤス屋に成り下がって問屋に虐められて惨めだよ。自分が見えない。仮にオレが外交官になれたとしても退官すれば、ただの爺さんだモンね。過去の栄光を偲ぶ」
久徳は話を締め括った。二人は渋谷の駅で別れた。階段を上る久徳の後ろ姿が寂しげだった。

渋谷で久徳と別れてから二ヶ月近く、彼から桂馬にも左千夫にも全く連絡がなかった。
「音沙汰なしですね。どうしたンですかね」悄然と駅の階段を登る久徳の姿が浮かんだ。
「大丈夫だよ。おおかた親父に叱られたンだろう。まじめに働けってね」左千夫は文庫本から目を離し顔だけで振り返りニヤリと笑った。
それから数日後電話があった。
「よ~、元気か。ごぶさた。今度の土曜、暇あるだろう。付き合えヨ。問屋に叩かれて滅入ってるんだ。気晴らしに行こう。左千夫?あいつはダメだ。難しい話と小言ばかりだからなア」久徳は待ち合わせの場所と時間を云って一方的に電話を切った。
約束の時間にかなり遅れて久徳はあらわれた。
「カチュウシャに行こう。お前、行ったことないだろう、オレは三回目。歌は得意じゃあないけど気晴らしに最適」
二人は歌舞伎町の雑踏に混ざり込んだ。
桂馬が東京にきて一番驚いたのは雑踏だった。一人一人心を持った人間であることが信じられなかった。
カチュウシャは歌声喫茶だ。往時より下火だといわれていたが、二階の入り口までアコーデオンと歌声が、かなりのボリュームで聞こえて来た。二人は汚れた階段を上った。
 ロシアの民族衣装を着た女性がマイクを片手に派手な身振りで歌い、あご髭をはやした男がアコーデオンを弾いていた。
時間が早いせいか七分くらいの入りだったがタバコの煙は霞み、歌声は溢れ、女も男も力みで顔は赤かった。
「ここにするか」久徳が大声で指を指した壁際のテーブルに席を取った。
二人は歌うわけでもなく聞くわけでもなく頭の後ろに両手を組んで天井を眺めていた。
「ここいいですか」女の声に二人は顔をあげ
「アッ」と息を呑みフリーズとなって硬直した。百軒店「ライオン」の女性三人組だったのだった。
つづく


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