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10.27
Sun
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多摩川是政橋の残照



 眠っているのか覚めているのか。もう五、六年にもなろうか桂馬の寝覚めだ。
静かな朝だった。そろそろ出かけますよ。いつものカバンだけでいいのよ。そうそう財布忘れないでね。
静かな温子の声が聞こえる。
 部屋の隅に渡した竹竿に吊したジーパン、ポロシャツを着て玄関を出た。駅までは十分程だが朦朧として歩は進まない。早朝の電車は空いていた。
利き過ぎる冷房に桂馬の頭の霧が晴れかかった。アアそうだ温子は居ないのだ、卒業証書を渡したのだ、そうなのだ。無理に自分に言い聞かせるように首を上下に振りつぶやいた。
 桂馬はこのところの身体の変化を漠然とだが感じていた。さっきの温子は夢だったのだろうか?
温子が云っていた車山に行こう。桂馬は立川駅であずさ号に乗りかえた。
このごろ桂馬はどこででも、うとうと居眠りをする。近くの席ではしゃいでいるカップルに諏訪の駅で起こしくれるよう頼んで桂馬は早速居眠りを始めた。
 二人に起こされた桂馬の頭は割とクリアであった。以前、温子と来たときに行った上諏訪神社、与謝野晶子に鉄幹を取られたという鈴木?某子の生家を訪ねた。あのとき何か言って温子をからかったかもしれないと、懐かしかった。息を切らして坂をのぼりオルゴール館にたどり着きオルゴールは見ずにコーヒーをのんだ。温子と見たときのイメージが壊れるのだといいながら少しづつコーヒーをすすった。
 受付の女性に白樺湖行きのバス停を聞いたら茅野駅からだという。仕方なく茅野駅まで引き返しバスに乗った。バスには地元の人らしい年配の女性が一人だけ乗っていた。
一時間程たっただろうか「白樺湖ですよ」運転手の声に桂馬は目を覚ました。
 桂馬は歩き始めた。辺りの景色も見えず頭の中は空白だった。桂馬は空腹をおぼえた。
今朝からコーヒー一杯だけ、何も食べていない。
 桂馬はソバ屋の暖簾を緩慢に分け中に入った。テーブル四個と縦長の畳三枚の席の小さな店であった。
椅子にソロリと腰を下ろし、テーブルに両手をのせ奥に向かって「ざる蕎麦一枚、天ぷら蕎麦一つ」と物憂げに云った。
奥の暖簾の中から中年の店主らしき男が「いらっしゃい、何にしますか」といいながら近づき桂馬をまじまじ見つめた。「ざる蕎麦一枚、天ぷら蕎麦一つ」と桂馬は答えた。
奥に入った店主はすぐ引き返し暖簾の中から首だけを出し「お客さん、お一人で召し上がるンですか?当店の蕎麦は量が多いですよ」と笑いながら云った。「いや、ザルは女房のです」と桂馬が答えると「奥さんの蕎麦は見えてからにしましょうか?」と云った。桂馬は「いやトイレだからすぐ来る」とトイレの方に顎をしゃくった。店主は「誰も入ってませんけどね」と小声で言いながら首をかしげ奥へ消えた。
 出来上がった蕎麦を持ってきた店主は「こちらにお泊まりですか?」と聞いた。桂馬は天ぷらを端によせ蕎麦をつまみ上げ、すすりながら「えエ、車山に夕日を見に来たんですよ。後の残照がいいんですよ」と答えた。「あいにく今日は曇りでね」と店主は奥へ入っていった。
桂馬は箸を置いてうつむき、ゆっくり顔を上げながら、あ、そうだった温子はいないのだ、卒業証書を渡したのだと呟いた。
「お召し上がり中すみませんね。息子がちょうど夏休みで帰って来てましてね。案内させますよ」暖簾から首を出し店主はそういって微笑み奥へ消えた。
桂馬は味わうこともなくそそくさと天ぷら蕎麦をたべた。
息子の両肩に手をのせ押すようにして桂馬の前に立った店主は「息子です。そろそろ行きましょう。奥さんがみえたらここで待ってもらいますから」と微笑みかけた。桂馬は店主の親切が何なのか考えながら「有り難う」といって頭を下げたが無表情だった。
後部座席の桂馬に「車山の中腹辺にレストランがあって駐車場からの眺めがいいんですよ」と息子が桂馬に話しかけた。「あ、そう」話はそれで途切れてしまった。息子は音楽をながしはじめた。たぶん曰くありげな自分を慰めるためだろうと桂馬は思った。車は十分ほどで駐車場に着いた。
柵の下は切り立った崖をなし谷底から遥か遠くまで唐松の梢の三角形が続く。日の入りは近いはずだが西の空の雲は厚く暗かった。
桂馬は時々一、二歩左右に歩を移しながら西の一点を見つめていた。重なり合った黒い雲の形が温子の顔に似てきたりした。
「父からケイタイに電話がありましてね、今日はもう遅いので泊まった方がいいのではといってますが」背後から息子が呼びかけた。二人は車に向かいかけたが「ちょっと待って」と桂馬は息子に声をかけ柵に向かった。掌をメガホンにして「おー、おー」西の雲に向かって声をかぎりに叫んだ。放心したようにただ一点を見つめてしばらく立ち尽くした。
 ホテルは以前、温子と来たときのホテルのようでもあり違うようでもあり記憶は曖昧であった。
食事もそこそこに部屋に入り、風呂も、歯も磨かず、夏がけ布団を頭からかぶってうずくまり「おー、おー」と、うめき声をあげた。車山での温子との思い出がどうしても思い出せない苛立ちだった。フウーと吐息をつきながら布団から顔をだし「寂しいな」と呟いた。胸の奥から熱い固まりがこみ上げてきた。(つづく)


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