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05.31
Sun
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南アルプスの残照 5月26日甲府市の路上から写す

次第
竹内桂馬。団塊の世代。忘我の社会生活から遠ざかって久しい。緩んだ時間と空気が過去を薄めていく。突然過去の記憶の断片が桂馬を襲う。桂馬は過去に立ち返る。それは残照だった。いっきに輝き静かに消えていく。残照が去って空虚が桂馬を包んだ。(次第の意味は残照 10 トラウマ(2)その1 をご覧下さい)

前回のあらすじ。
桂馬は従兄弟の友人、久徳に連れられて行った渋谷の音楽喫茶に行った。偶然知り合った女子学生三人組と新宿の歌声喫茶「カチュウシャ」で再び出会った。
その中の一人が桂馬に頼み事があるという。久徳と三人、渋谷で会う約束をした。
ハチ公前に現れたのは寒河江出身の娘一人だけだった。桂馬は当惑した。

「久徳さんは来ないンですか」桂馬は視線を落とし呟いた。
「わたしのお願いですので久徳さんは来なくてもいいンです」
「いや。僕が困るンです」
「あら、どうして?わたしが嫌ですか?」色白の丸顔を崩してニッコリ笑った。桂馬はドキリと目を落とし、馴れ馴れしい云いようだな、カチュウシャで友達になったつもりなのかなと思った。
「わたしが知ってる喫茶店があるの。行きましょう。コーヒーも美味しいけどケーキが美味しいの」
「いや、僕はコーヒー、嫌いです。ここでいいです」
「大事なお願いなんです。ここではあまりにも」
「頼みは何ですか?君に頼まれる程のもの、僕は何も持ってないけど」
「まア」寒河江娘は桂馬を上目づかいに見て
「仕方ないわ、ここに座りましょう」、ハンドバッグからハンカチを二枚取りだし花壇の縁石に敷いた。
「僕はいいです。汚れて困る程のもの穿いてないから」とハンカチを突きだした。
寒河江娘は気色ばむ様子もなく笑いながらハンカチを受け取った。
突然、数台のバイクが轟音を引いて通り過ぎた。二人の顔がバイクを追った。寒河江はバイクの行方に顔を向けたまま
「桂馬さんもバイク、好きですか?」
「え?どうして僕の名を?」
「久徳さんに聞いたの。素直でいい子だよ、ですって」
「バイクは嫌いだ。表だって自己主張するのは、もっと嫌いだよ」桂馬のぶっきら棒な答えに寒河江娘は桂馬の心の中を探るかのように笑顔を向けた。
桂馬は寒河江娘の透き通るような丸顔をまともに見ることが出来なかった。しだいに身体が硬直していくのを感じた。
「お願いですけど、卒論を書いていただきたいの」
「え?卒論?」全くの予想外だった。
「来年、卒業なんです。私、文章全然だめなの、書けないンです。久徳さんに相談したら桂馬さんが最適とおっしゃるので。お願いします」
「僕だって書けないよ。卒論なんてとんでもない」
「久徳さんの妹さんに弁論大会の原稿、書いてあげたンでしょう?聞いたわ。久徳さん絶賛してた。だからお願い」寒河江娘は両手をこすり合わせた。
「中学生の弁論大会と卒論では次元が違いすぎるよ、駄目です」
いきなり寒河江娘の白い手が伸び桂馬の左手を捕らえた。もう一方の手で紙袋の紐を桂馬の手に掛け
「資料が入ってます」寒河江娘の手の温もりが桂馬の心臓を揺さぶった。それは桂馬に承諾を強いた。強引さなどまったく感じる余裕がなかったのだった。
「先生がフォークナー論がいいのではとアドバイスを頂いたの。紙袋のなかにフォークナーの代表作が入ってます。」
「フォークナー?知らないな、もしかしてアメリカの作家?」
「そうです。十数年前のノーベル賞作家です。始めに、フォークナー短編集、を読んで下さい。フォークナーの行き方が凝縮されてるそうです」
「外国の小説は苦手だナ。ノーベル賞なんて読みこなせないよ。僕は永井荷風を尊敬してるんだ。濹東綺譚が好きだよ。だから天丼も大好きだ」思いつきの皮肉だった。
「え、天丼?」
「天丼は荷風の好物」ボソリと付け加えた。

桂馬は色町の近くで育った。母は桂馬に、女に対する警戒心を幼い時から植え付けた。桂馬がそれを意識し出したのは思春期の頃だった。母の思惑は解らなかった。桂馬は、ただ当たり前のように受け入れたのだ。
近所の若い女の子は勿論、高校のクラスメートの女の子と親しく話をする事もなかった。その反動だろうか、桂馬には大人になっても、心の中に理想の女性像があった。幼い頃、祖母が営む旅館のお手伝いの少女、フミだった。長ずるに従い理想を肉付けしていったフミ像と、会う女性を比較するのが常だった。

「大変なお仕事、お願いしてすみません。自分の無能さに腹が立ちます。よろしくおねがいいたします」立ち上がった寒河江娘は丁寧にお辞儀をして、ハンドバッグから二つ折りの紙片を取り出し桂馬に差し出した。
「住所と電話番号など書いておきました。まだ資料がお要りでしたらお電話下さい。電話は呼び出しです。下宿のおばさん、うるさいの。おばさんに用件を説明してください。お願いします」バラの花に縁取りされた便箋には、住所と電話番号、直江桜子と小さな字で書いてあった。
「今日はこれで帰りますね。途中までご一緒にと云いたいところですけど、桂馬さん今日はご機嫌すぐれないようですから先に帰ります。論文の構想が出来ましたら要旨をまとめて頂くとありがたいです。先生に見ていただきますので」桜子は大きなリボンの帽子を頭に載せ改札に向かった。裾広のワンピースの後姿が美しかった。桜子は振り返り手を振った。
桜子の身体から放射される不思議な気に、桂馬の警戒心は緩んでいった。
桂馬は緩慢に立ち上がり渋谷駅前の雑踏を、恵比寿側の改札へ向かった。桜子の笑顔が甦った。桜子は意地の悪い桂馬の受け答えを気にしていないのか、気がついていないのだろうかと桂馬は思っていたが、別れ際に「桂馬さんはご機嫌がすぐれないようですから」と云った桜子の言葉が桂馬の胸を徐々に締め付けていった。
「書かなくては」「よし」桂馬は心の中で叫んで改札に急いだ。

桂馬は大学の図書館に籠もった。独特な翻訳の文章とアメリカという外国の生活、習慣の不十分な理解に苦しみながら短編集を繰り返して読んだ。満員の電車でも、家でも読んだ。
「桂ちゃん、彼女から電話よ」階段の下から叔母の声が聞こえた。
「え?彼女?だったら、まだだ,と云って」
「それだけでいいの?」
「いいんです」電話は桜子だった。成り行きを確かめる電話だった。
論文の要旨をまとめるのに三ヶ月も掛かってしまった。途中で嫌気がさし中断することもしばしばだった。
桜子に原稿を送ってしばらくして、桜子から電話があった。桜子のこえは弾んでいた。
「有り難うございました。ほんとは、わたし書いて頂けるのかどうか半信半疑でしたの。うれしかったわ。清書して先生に目を通して頂いたの。いいのが出来そうだねって仰って頂きました」
卒論を仕上げるのに、そう時間は掛からなかった。女性らしい文体に清書するようにと手紙を添えて桜子に送った。
数日して又桜子から電話があった。
「今日先生に見て頂くようお渡ししました。私が一番乗りですって。うれしいわ。そうそう先生の奥様、私と同じ山形の寒河江出身ですって。私って訛りがあるでしょう、それで気がついたようです。遊びにおいでって仰って頂いたわ。お住まい、江ノ島の近くの腰越ですって」
その後、桂馬は桜子から腰越の教授宅に一緒に行って欲しいと度々誘われたが桂馬は応じなかった。警戒心は薄らいだが恥ずかしさもあったからだ。
秋風が立ち始めた十一月初め桜子からの葉書が舞い込んだ。桂馬の脳裏から桜子の面影が薄くなりかけていた頃だった。
桂馬は躊躇もなく返事を書いた。「日時と場所を知らせたし」“うるさい”という下宿のおばさんの目を考えての事だったが、あまりの愛想なしの文面と、躊躇なしの性急な返事に我ながら苦笑したのだった。

二人は東京駅から横須賀線に乗った。二人の会話はほとんどなかった。桜子の話に桂馬が乗らなかったというか、どう返事をしていいのかわかったのだ。つまり動転していたのだ。桂馬は仕方なしに目を瞑った。桜子は時々目を瞑った桂馬の顔をのぞき込み
「ごめんなさい無理にお誘いして」とか「ご迷惑?」などと云った。桂馬は薄目を開け
「いや」とだけ答えた。桜子は楽しんでいるようにも、からかっているようにも思えたが嫌ではなかった。桂馬にとっては質量十分な会話だったからだ。

教授の家は腰越漁港の上の高台にあった。奥さんが出迎えた。奥さんは桂馬を見て
「貴方の彼氏」と笑顔を桜子に向けた。
「いいえ高校の同級生です。同郷の奥様に会わせたいと思って」
「さすが寒河江男子、ハンサムね。大学も一緒?」桜子は口に手をやりクスリと笑って
「奥様、彼は男性です」
「あらいやだ。私達の学校、女子大ですものね」と豪快に笑った。東北の女性にしては磊落な人柄なのだろう。桂馬の緊張は一気に解けた。
桜子と奥さんの話題は寒河江に終始した。寒河江を知らない桂馬はただ相づちを打つだけだった。
「あ、そうそう、主人ね、急に歯が痛み出して歯医者さんに行ってるの。もうそろそろ帰る頃だと思うけど。もう少し待って」
教授はなかなか帰ってこなかった。頃合いを見計らい桜子が
「奥様又出直します。先生にお大事にとお伝えください」奥さんは熱心に引き留めた。
二人は国道を江ノ島の方向へ歩いた。
「水族館に行きません?」桂馬はコクリとうなずき時計を覗き込み
「駆け足で見て回ろう」答えが明るかった。
海岸に降り立つと弓なりに曲がった海岸線の左に江ノ島が近かった。右の遥か彼方には富士山が浮かんでいた。頂上付近に白い雪の帽子が見えた。秋の日はかなり西に傾き富士山が赤みをおびていた。
「きれいね。寒河江は海が遠いから。こんな絶景初めて。絵のよう」
桜子が急に立ち止まった。桂馬の前に立った。
「桂馬さん、私の肩と頭を額縁にして富士山、見て。きっと広重の絵よ」桂馬は云われるまま少し腰をかがめ肩越しに富士山を見た。二人はしばらく立ち尽くし富士山を見た。
無言で富士山を見つめた。
桜子がくるりと桂馬に向き直り桂馬の両肩を掴んだ。桂馬の唇に電撃が走った。一瞬だった。二人は顔を見合わせたまま自失して立ち尽くした。
     つづく





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