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06.13
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2015年5月25日 東京都府中市多磨墓地で写す。上から菩提樹の花、花盛り、並木。

府中市の東の端にある多磨墓地でこの木の花を見つけた。
隣接する都立公園、浅間山にムサシノキスゲを見に行った帰り道だった。武蔵野キスゲは浅間山だけに生育するキスゲ。去年、20日頃見に行ったのでまだ咲いているだろうと行ったら既に終わり実になっていて一輪も咲いていなかった。ガッカリ、人気のない多磨墓地をガタガタ。古自転車のペタルが重かった。ヒョイと見上げたら見慣れない花が咲いている。葉には見覚えがある。菩提樹だった。薄黄色の花は清楚で、きれいだった。菩提樹にきれいな花が咲くとは聞いたことも無かったし初めて見たので感激千仞だった。

菩提樹はお釈迦様がこの木の下で悟りを開いたという聖なる木。菩提樹と呼ばれる木は三種類あるらしい。インドボダイジュ、中国原産ボダイジュ、西洋ボダイジュ。
中国産と西洋産は近縁らしいがインド産は全くの他人だそうだ。よく似てはいるが、葉の大きさや厚み、ザラザラが少し違う。
お釈迦様が悟りを開いたブッダガヤの聖地の菩提樹はまだ小さい木だった。以前の木はヒンズウ教の仏教迫害の時、切られたと仏教徒らしい人達が教えてくれた。デリーやベナレスなど北インドはヒンズウ教とイスラム教がほとんどで、仏教は数パーセントだという。北インドの街に菩提樹を見かけなかったのは彼らに切られたのではと要らぬ勘ぐりをした。見当違いかも知れない。
北インドの町中では見かけなかったが、デカン高原の麓の街、バンガロールに聖人サイババを拝みに行ったとき泊まったホテルの庭に大木があった。気温も風速も風向も一年を通してほとんど変わらないという涼やかな風が菩提樹の葉を揺らしていた。その光景が懐かしい。

西洋菩提樹はシュウベルトの歌でたいていの人は知っていると思う。
日本にある中国原産の菩提樹はシナノキ科だそうだ。親のシナノキは科ノ木で、信濃木とも云うそうだ。日本だけにあり、長野県に多く、有用木だという。葉、樹形ともに菩提樹にそっくり。
インド菩提樹は日本では育たない。他人の空似の中国原産を「菩提樹」と名を付けたのだろうか。お寺や墓地に多く植えられている。

どうしてシナノキを菩提樹にしなかったのだろう。ひがみ根性の意見だが、中国産が有り難いのだ。日本人は外国に弱い。日本は昔、中国に学び、明治維新後、西洋に学んだ。だがそれは遥か昔の話。多方面で外国を追い越した今も外国崇拝を引きずっている。愛国心もうすい。外国では至る所に国旗が誇らしい。日本では日の丸ならぬイタリアやフランスの国旗がレストランにはためく。日の丸を見るのは官公庁とスポーツの国際試合などの時だけ。この時だけ‘日本人’は一時的愛国者に変身するのだ。祝祭日にでも門前に日の丸を掲げようものなら右翼扱いだ。家庭に日の丸を持っている人は希だと思う。かくいう我が家にもないが。
昔はテクノロジーは兎も角、文化的には外国を凌いでいたのだ。日本人として誇りを持とうと感銘を受けた本を読んだ。ウロ覚えで間違っているかも知れないが。
著者がパリで十二単衣のショウをしたそうだ。観客の文化人達が「フランスでは海賊のようなかっこうをしていた時に日本ではこんな豪華な着物を着ていたのか」と驚いたそうだ。著者はさらに、同じ頃「源氏物語」があったと云いたかったが彼らがもっと驚くだろうと止めたそうだ。「源氏物語」が世に出た頃は世界のどこにも匹適する物語は無かった。源氏は世界に誇る名著なのだ。と聞いた。

日本を吹聴して本題が逸れてしまった。菩提樹は仏の木。南無阿弥陀仏だ。南無阿弥陀仏を繰り返し繰り返し唱える能の名作がある。「隅田川」だ。教科書に取り上げられたので知っている人は多いと思う。
能「隅田川」は人買いに連れ去られた我が子を探して歩く母親の物語。狂女物と呼ばれる。狂女物は、危ない女の一人旅、また旅費を稼ぐため、我が子の情報を得るため、狂気を装って所の風物を種に即興の芸を見せ旅をする。
狂女物は芸の面白さを見せるのを目的とした作品群だが「隅田川」は更にもう一つが加わる。
能「隅田川」の狂女は武蔵の国、隅田川にやって来る。ここは在原業平が都に残した妻を偲んで歌を詠んだ、よく知られた所だ。渡し守の船頭は狂女に面白く狂えと云い、狂わなければ船に乗せないという。狂女は業平の伊勢物語を巧みに歌詞にして謡い、舞い狂い、船頭をやり込める。狂女は才女なのだ。
対岸から念仏が聞こえる。船頭は念仏について語る。ワキ方の重い習いだ。
都の少年が人買いに連れられて奥州に下る途中、病に倒れ隅田川のほとりで亡くなる。今日が命日で所の人が供養をしているのだと語る。少年は訪ねる我が子だったのだ。
初め他人事のように聞いていた母は我が子の事ではと疑い初め我が子の事だと気がつく。その経過がいいのだ。心の動き、心理描写がいいのだ。観客も演者も一つになって緊張の淵に沈む。抜群の演出、能独特の技法なのかもしれない。

母は鉦鼓を打ち鳴らし南無阿弥陀仏を唱える。供養に集まった所の人も、船の客も唱える。南無阿弥陀仏の唱和は大波となる。悲しみも大波となる。
この能は人の悲しみの本質を描くことを主題にした作品かもしれいと思われてくる。

    能「隅田川」の詳しい解説は「能、曲目の解説」をご覧ください。


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