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06.27
Sat
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梅雨の雨雲に覆われた奥多摩方面の残照
(2015年6月20日 府中市住吉町 鎌倉街道、多摩川に架かる関戸橋から写す)

次第
砂内桂馬。団塊の世代。
霧の中を彷徨う如く索漠たる日々。
突然一条の光が差し込む。思い出だ。幼い時の、少年の時の、壮年期の想い出だったりする。
想い出の悲しみ、苦しみは、今では幸せに変質する。生きている証であり生きる心の糧でもある。
しかしそれは残照なのだ。しばらく輝き静に消えていく。索漠たる彼方に。

前回のあらすじ。
桂馬は少年期、母親に女性に対する警戒心を植え付けられた。理由は薄々感じたが母の思惑は想像するだけだった。
桂馬は女子学生四人組と偶然知り合った。
その中の一人、桜子は一際目立った。桂馬の警戒心は桜子に向けられた。
その桜子に桂馬は卒論の代筆を頼まれた。
卒論の執筆の遣り取りの中で、桂馬の桜子への警戒心は徐々に薄らいでいった。
卒論を提出して数日後、桜子が江ノ島に近い腰越の担当教授の家を訪ねようと桂馬を誘った。
腰越からの帰途、二人は日もかなり傾いた湘南の海岸を歩いた。
江ノ島と遥かな富士山が美しかった。
突然立ち止まった桜子は桂馬の肩を掴み唇を重ねた。桂馬には初めての‘事件’だった。


衝撃だった。人の行動にはたいがい予兆があるものだが、心の準備をする瞬間もなかった。母の顔が一瞬浮かんだがたちまち消え、母が教えた喪失感も罪悪感もなかったのは不思議だった。母のバリアが破られたのだ。
数日の間、衝撃が頭に浮かんでは消え浮かんでは消えた。
唇に残った生暖かい感覚が消え、なにか懐かしさに似たものに変ろうとしたころ桜子から手紙が届いた。
渡したい物があるので大崎の駅改札で待っているという簡単な文面だった。朝七時半とあった。
その朝、桂馬は落ち着かなかった。七時半に何か曰くがあるのだろうかと思いをめぐらしながら下駄を鳴らして明電舎の塀つたいに駅に向かった。
通勤の人達は急ぎ足に、うつむきかげんに桂馬を追い越していった。
桜子は改札の端に小ぶりの紙袋を下げて立っていた。
深い紺色のワンピース、布地の靴、帽子はなく、髪は後ろに無造作に束ねていた。秋も深まった朝だったが、コートは着ていなかった。
渋谷の駅前で会ったときの花やかさは、まるでなかった。少し大人っぽく見えたが清楚な姿だった。
桂馬は手を挙げて歩み寄った。
桜子は深々とお辞儀をして改札の柵に歩み寄り紙袋を差し出した。
「朝早く、ごめんなさい。出来るだけ早くお渡ししたくて」
「あ、いや」
「それでは、これで。さようなら」桜子はふたたび深々とお辞儀をした。桂馬は、桜子の‘さようなら’に咄嗟に反応した。
「今から何処かへ行くンですか?」
「いいえ。お渡しするの、朝の方がいいと思って」
「それでは戸越銀座まで歩きませんか。戸越から電車に乗ってもそう遠回りではないと思う、意外と近いンです。」誘いは自然だった。
「いいンですか?ご迷惑ではないですか?」
「いや」桂馬は頭を小さく振った。
「それではお言葉に甘えてそうします。」
二人は芳水小学校の石垣伝いの坂道を登った。
「これ、何が入ってるの」桂馬は紙袋の中をのぞき込んだ。
「与謝野晶子の、みだれ髪とお手紙です。でも今読んでは駄目です。お家に帰ってから読んで下さい」桜子は紙袋を軽く押さえて、
「腰越で、銀杏の葉っぱ四,五枚放り上げて“銀杏散るなり夕陽の丘に”と笑ったでしょう。私、忘れないように必死に覚えて、先生に聞いたの。ちょうど、みだれ髪の初版の復刻版が出ているよ、と教えて頂いたの」
「ほう、みだれ髪」
桂馬が少年の頃、教科書か何かで覚えたのだろうか、頭にこびりついていたのだ。多分、与謝野晶子は激情の人とばかり思っていて、この歌が意外だったので覚えたのだろう。
二人の会話は淀みがなかった。気遣いの敬語もいつの間にか消えた。緊張が解けたようだった。桂馬は変化して行く自分の心を思った。

駅前の小さい商店街はいつものような活気だった。
「あそこのパン屋で朝飯しよう。結構旨いンだ。コーヒーも結構いけるよ」
「あら?桂馬さんコーヒー、嫌いではなかった?」桜子は初めて笑顔を見せた。渋谷の駅前で桜子にコーヒーに誘われ邪険に断った稚気が甦った。
「あれからコーヒー、練習したンだ」照れ隠しはぎこちなかった。
桜子は、上目使いに桂馬をみて微笑みコクリとうなずき、
「はい、お供致します」
桂馬が勢いよくドアを引いた。店の中には客の若い女性が一人、細長いパンを千切っていた。
「あら、意外にきれいなお店ですね」桜子の言葉はお世辞ではなく、場末にしては小綺麗な店だった。
店主は桂馬が下宿している叔母の友達だった。叔母の息子、従兄弟の左千夫のお気に入りで、休みには桂馬をお供に通った。
「いらっしゃいませ」奥から声がして店主が現れた。
「あら、桂ちゃん、早いわね。今日は佐っちゃんは?ア、そうよね、今日は会社よね」店主は桜子に顔を向け、
「お友達?きれいなお嬢さんね」と微笑んだ。
店主は注文を聞き、桂馬に片目をつぶって見せ、奥のカーテンに消えた。桂馬は店主の背中に、
「違います。ただの知り合いです」
桂馬は急に大人になった気分で少し嬉しかった。
鎌倉の‘事件’のわだかまりが二人の会話の節々にあったがお互い口には出さなかった。
「ねえ、桂馬さん。久徳さんってどんな人?時々電話、かかってくるの。アパートのおばさんが気をつけなさいよって云うの。少し怖いわ」
「僕の兄のような従兄弟の友達。少しオッチョコチョイだけど普通の人だよ」久徳の話はそれだけで終わった。
「このお店、気にいったわ。またご一緒させてください」
「いつでもどうぞお声をおかけ下さい」微笑みながら応じた。
「貴重なお時間を、どうもありがとうございました。それではこれで」
桂馬はもう少し居たい気分だったが店の人の目もあったし桜子の手紙も気になった。
「あ、そうそう。先生が又腰越に来て、とおっしゃって」桜子は急に目を落として
「ごめんなさい。わたし、なにを云っているのかしら。何しに来たのか忘れていました。ごめんなさい」
桜子は江ノ島海岸の‘事件’の事を云っているのだろう、打ち解けていたと思っていた桂馬は少しさびしかった。桂馬の中ではとっくに想い出に変質していたのに、桜子の言葉が意外だったから。
二人は店の前で左右に別れた。桜子は振り返り振り返り小さく手を振った。桂馬も振り返った。濃紺のワンピース姿がきれいだった。

桜子の手紙の内容に、桂馬はおおよそ見当をつけた。読むのが怖かった。自然与謝野晶子の復刻本に手が行った。
復刻版の表紙はハートの絵がきれいだった。表題のページの裏に絵の説明があった。「表紙画みだれ髪の輪郭は恋愛の矢のハートを射たるにて矢の根より吹き出でたる花は詩を意味せるなり」
桂馬にも与謝野晶子の情熱の片鱗があるのではと桜子は思って少し心を和らげたのではないかと桂馬は思った。

 手紙は手作りの白い和紙の封筒の中に、罫線のない便箋二枚だった。
「からだが、かってに動いたのです。わたし自身も信じられないのです。ほんとうです。信じてください。お願いです。どんな方法で償えばいいのでしょう。考えても考えても混乱するばかりです。教えて下さい」一枚目は‘事件’のことだけだった。
二枚目には、
「みだれ髪の復刻本を見つけました。“銀杏散るなり夕日の丘に”の歌はありません。先生に伺ったら、明星の同人、三人の合同歌集「恋衣」にあるそうです。探してみます」
桂馬は、アグラのまま頭の後ろに両手を組み仰向けになって天井を見つめた。天井板の木目模様が色々の形に変化した。桂馬は桜子を思った。心の中を占めていく桜子を思った。

秋が深まり銀杏の木々の葉も残り少なくなったある日、桂馬は思い切って桜子に手紙を書いた。腰越に行こうと誘った。教授や磊落な夫人の話を聞きたいと書いた。
桂馬には苦手な類の人達だったが、桜子を誘う理由や名分がなかったからだ。女性など誘ったことがなかった桂馬には、理由も名分もなくてはならなかったのだ。
桜子の返事は早かった。

ウイークデーの午後の横須賀線はガラ空きだった。
晩秋の空は明るく空気は澄み風もなかった。花柄のワンピース、長い髪を後ろで無造作に束ねた清楚な姿の桜子がまぶしかった。
並んで座った二人の会話は途切れ途切れだった。
横浜から若い黒人の男の二人連れが乗り込んだ。
二人の態度は堂々としていた。異国で、しかも異人種の中で、こうも堂々としている姿が桂馬には羨ましかった。
「フォークナーはアメリカの南部出身の作家だそうだけど、インデイアンや黒人には好意的だったと解説に書いてありましたね。私は黒人を虐げた南部の人達を書いた作家だとばかり想像していたの。異人種への差別は悪いことだと思っていても、嫌悪感は、身体が勝手に反応するのだと何かの本で読んだのか、誰かに聞いたのか忘れたけど、そんなことをテーマに書いた人かなと想像していたの」
桜子の発言に桂馬は桜子の顔をじっと見つめた。驚いたのだ。
「あら、ごめんなさい。生意気云って。あの二人を見ていたら思い出したの」
これ程の見識を持っている桜子が卒論を書けない訳はない。だったらその理由は何か。
そう言えば卒論を提出したのは十月だった。提出期限には早すぎる。桂馬の混乱は大船まで続いた。
「桂馬さん、先生のお宅までご一緒する?無理しなくてもいいですよ。苦手でしょう。実は奥様には一緒だとは話してないの」
「助かるナ。ほんとは苦手なンだ。腰越港の網小屋に去年の夏知り合ったおじさんがいる。おじさんと話してるネ。おじさん、話し好きなンだ。ゆっくりしてきていいよ」

おじさんとの話しの種も尽きかけ、陽が大きく傾いたころ。桜子が網小屋に現れた。
「ごめんなさい。奥様に引き留められて。先生、今日も居なかったの。急に講演、頼まれ
たそうです。奥様、手ぐすね引いて待ってたようで、話が尽きないの」
網小屋のおじさんが帰り支度を始めた。
「おじさん、面白い海の話、楽しかった。ありがとう」
二人は網小屋を出て人気のない海岸を歩いた。波の音が静に尾を引いた。晩秋の澄み切った潮風の、かすかな香りが二人を包み、砂を踏む感覚がやさしく靴の底から伝わり、その音はリズムをつくった。
二人は手をつないだ。自然に。二人は立ち止まった。波の音が消えた。唇を重ねた。自然に。      
     つづく

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