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09.26
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塩竃の残照 2013年12月26日写す

次第
竹内桂馬。団塊の世代。何事をなすこともない世界に生きる。情感の起伏も薄い。
突然過去の断片が甦る。それは残照。しばらく輝き、そしてしずかに消えていく。

前回までのあらすじ。
桂馬は幼時から少年期まで、母から女性に対する警戒心を植え付けられた。
母の意図がおぼろげに想像できるようになった頃、それは次第に桂馬のトラウマになって行った。
桂馬は偶然、桜子と知り合った。
桜子は世田谷にある女子大の学生だった。
その桜子に桂馬は卒論の手伝いを頼まれる。
桜子は派手やかの中に知性を感じさせる女性であった。
桂馬は警戒しつつも次第に桜子に惹かれていく。
桜子が卒論を提出してから、二人は担当の教授宅を湘南に訪ねた。
教授の奥さんが桜子と同郷の寒河江だったからだ。
江ノ島と富士山が美しい夕暮れの海岸を二人は歩いた。二人はごく自然に手をつなぎ、そして唇を重ねた。
 桂馬が桜子と知り合ったのは従兄弟の友達、久徳に連れられて新宿の“歌声喫茶”に
行った時だった。
桂馬は久徳が、桜子に関心がある事は桜子の言葉の端から感づいていた。
 冬休み、二人はそれぞれの郷里、桜子は寒河江に、桂馬は塩竃に帰った。
寒河江の桜子から塩竃の桂馬に手紙が届いた。「山寺」に行こうと誘いの手紙だった。
その後、冬休みが終わる頃になっても連絡はなかった。
桂馬は待った。あれこれ思い、杞憂と念じ待った。
桂馬は思い切って手紙を書いた。
 冬休みも終わり桂馬は大崎の下宿に帰った。桜子から手紙が届いていた。
二人は渋谷の喫茶店で会った。
桜子は躊躇もなく告白した。久徳が、桜子の心の中の隅々まで占めてしまったと。
二人の間に何が起こったのか、桂馬には推測する余裕もないほど混乱した。
桂馬は無言のまま桜子を目蒲線の改札まで見送った。
改札近く、突然大きな腕が伸び桜子の腕を摑んだ。久徳だった。
桂馬は茫然と立ちつくした。いつまでも。


桂馬は目黒駅の階段を俯いて、だらだらと下りた。頭の中のものは全て放出し尽され、何も残っていなかった。
開いた電車の扉の中に片足を載せた瞬間、胸の固まりが膨張した。
目を強く二、三度しばたいた。
桂馬はドアの横に立ち、外に視線を向けるともなく向けた。
窓の外の景色が線を引いて流れていく。桂馬は虚ろな視線を外に向けたまま立ち尽くした。
「新宿」のアナウンスに反対方向に乗ったのに気が付いた。

春の気配が感じられるようになって、桂馬の心の霧も徐々に晴れる気配を見せ始めていた。
その日は日曜だった。何故か朝早く目が覚めた。
桂馬は長塚節の「土」を読んでいた。
「土」は高校生の頃、学校の図書館で見つけた小説だった。
乱読だった桂馬は、この小説の貧しい農民の姿にすっかり引きつけられた。
故郷を出るとき無二の親友、民雄が餞別にと呉れたのだった。
「桂ちゃん電話よ。久徳さんから。急ぐんだって」階下から叔母の声が聞こえた。
太い綱が桂馬を強引に過去に引き戻し、胸の大波がうねった。
「すまないが、電車賃をもってきて呉れないか。今、彼女の所にいるんだ」
「エッ」桂馬はあとが続かなかった。
「財布、空っぽなんだ」
「彼女に借りればいいじゃないですか」精一杯の抵抗だった。
「バカ、女なんぞに銭なんか借りられるか」
「五百円玉一個と百円玉、二、三個しか持っていません」
「それで十分。きっと返すから心配するな。八時まで目蒲線の洗足駅に持ってきくれ」

桂馬は、旗の台駅から洗足駅まで歩いた。早春の朝の冷気が異常に沁みた。
久徳が改札前のコンクリート階段下の端で待っているのが見えた。
桂馬はポケットに手を入れ小銭を探った。
顔を上げると女性ガ久徳に近づきマフラーの様な物を差し出した。
桜子だった。
寝起きのままの姿にコートを羽織り、髪は乱れていた。
穿いた突っかけが強烈に桂馬の目を射た。
咄嗟に幼い頃、祖母の家の前を、ちびた下駄を鳴らして銭湯に急ぐ、歓楽街の女性の姿が浮かんだ。
渋谷や湘南、上野の駅で会った桜子の面影は微塵もなかった。
桜子は桂馬に気が付くと深々と頭を下げ俯いたまま小走りに去っていった。
「オー有り難う。早朝からすまない」久徳の顔はこわばっていた。済まないという顔ではなかった。
桂馬は小銭を握った拳を久徳に突きだした。
拳は小刻みに震えた。
開いた掌から小銭が一個こぼれ落ちた。
“チャリン”五百円玉は澄んだ音を残して縦に転がり側溝の際で横倒しになった。
五百円玉の音は桂馬の耳にこびり付き何時までも鳴り続けた。
桂馬は小銭の音と共に奈落の底に落ちていった。

桂馬の身に降りかかったこの“事件”は一体“何”なのか、それはあまりにも深刻だった。女性を警戒し続けた桂馬には尚更だった。
「奈落から抜け出さなければ。気分転換しなければ」
「どこかに行こう」
桂馬は山手線を一回りした。行き先は思い付かなかった。
いつの間にか足は桜子との思い出の地に向かっていた。「やはりナ」桂馬は苦笑した。

桂馬は江ノ島の水族館にいた。
桜子に行こうと云いながら浜辺で時間を費やして行けなかった水族館だった。
小さな魚が右に左に急回転しながら自由闊達に泳いでいた。
「何も考える事、ないの?羨ましいナ」
「桜子が、私は一匹の動物のように、心が命ずるまま生きていく、と云ったけど、お前達は人間と違って、何をしても誰も喜ばないし、悲しまないよネ、いいネ」桂馬は小腰をかがめ水槽に鼻を近づけ呟いた。
桂馬の心はますます萎縮して晴れることはなかった。

「ただいま」桂馬は力なく玄関を開けた。
「お帰り」奥から大きな声がしてエプロン姿の叔母が急ぎ足で現れた。
右手に菜箸を握っていた。
「どうかしたの桂ちゃん。様子が変ね」
叔母もこのところの桂馬の変調に気が付いていたのだろう。
「それより、お母さんから電話があって、明日一番の電車で帰りなさいだって」
「え?」
「よしよし、叔母さんがお母さんに電話してあげる、おいで。お母さんから詳しく聞いて」
叔母は菜箸に気が付いたのか、桂馬を振り返りニヤリと笑い菜箸をテーブルに置き、エプロンで手を拭きながら電話に向かった。桂馬も後に続いた。
「フミちゃんが危篤なの、明日、一番の電車で帰って来て」母の声は沈んでいた。
桂馬は力なく二階の階段を登った。
「桂馬、相談があるんだ」従兄弟の左千夫が上から顔だけ覗かせて呼んだ。
「お袋に聞いたけど、明日塩竃に帰るんだって?」桂馬はフミ、危篤の衝撃に左千夫の前にへたり込んだ。左千夫の“相談”に思いを巡らす余裕はなかった。
「昨日、久徳と会って話を聞いたンだ。奴の彼女の事だよ。
お前も彼女、知ってるんだって?久徳が云ってたけど」
フミ危篤との二重衝撃に打ちのめされ、しばらく言葉が出なかった。
桂馬はうつむいたまま「まあ、少しは」とだけ答えた。
堅物の左千夫が何を話し出すのか予想する気力もなかった。
「二週間ほど前、二人で寝ているところを彼女の母親に踏み込まれたそうだ。
アパートの家主のおばさんが知らせたらしい。
そのまま有無もなく寒河江に連れて帰ったそうだ」左千夫の口調は淡々だった。
「そうですか」桂馬も淡々と答えた。
どんなに男女の事に無知でも、洗足の駅前で久徳にマフラーを渡していた桜子の姿を見たのだ。おおよその見当はつく。
その時桂馬は奈落に落ちたのだ、もう何物も受け入れる器が桂馬の中にはなかった。
「彼奴は俺と違って一途なんだよ。
前にも二、三回女のことで悶着があったが、今度は様子が違うんだ」
「どう違うンですか」
桂馬は実の兄のように思っている左千夫に反発を感じた。
「思い詰めているんだよ。あの意地っ張りの久徳が。この俺に相談に来るんだから」
左千夫は桂馬の反応を確かめるかのよう桂馬を見つめて、
「とにかく尋常ではないンだ。自殺でもしかねない様子なンだよ」
「そこでだ、お前に頼みがあるんだ。彼奴の彼女に会って来てくれないか」
「仙台から仙山線だと寒河江はそう遠くないと思う。
俺が頼まれたのだから俺が会って話を付けなきゃいけないンだけど。会社の仕事がどうにもならないンだ、頼む」
左千夫は大袈裟に手を合わせて頭を下げた。
桂馬は左千夫の頭を見下ろし、堅物の朴念仁に、女性問題の解決など出来る訳がない。会社の仕事は言い訳だ。
桂馬の心はおののき際限なく固まり続けた。
「はい、それでは何ンとかするように考えます」桂馬はこう返事するのが精一杯だった。
「いま僕は奈落の底にいるのだ、そして過去を清算すべく藻掻いているのだ。
桜子も同じように藻掻いているはずだ。
この上桜子に何を伝え、何を頼むのだ、会える訳がない!」桂馬は心の中でさけんだ。
「久徳の奴、どうなっているのかな、彼奴の心だか、頭だかの構造は。
俺には想像も出来ないよ。
たかが男と女のことに全身全霊を消費するのだから」
「全ての事に、均等にエネルギーを使え、と云ってやりたいよ」
桂馬は左千夫の言葉に、久徳に同情さえ覚えた。
「兄さんも彼女、いるでしょう。だったら久徳さんの気持ちも少しは解るでしょう」
桂馬の口をついてでた言葉が自分のものとは信じられなかった。
「融子のことか?」
「そうです。融子さんのこと、少しでも好きだったら、恋愛感情が分からない事はないでしょう」
「恋愛感情がないわけではない。だがそれが過激すぎると周囲に障る。
俺は融子を将来の伴侶だと思っている。
マ、賢いし、健康だし、器量も十人並み以上だし」左千夫はニヤリと笑い、
「いや、今のは冗談だ。すまない」左千夫は真顔になって
「オレは融子と結婚して子供を作って家を継ぐ。オレの子供もそうすることを願っている。それが人間本来の姿だと思う。
これはと思う女がいてもその女に不都合があったら他を探せばいい。
痴情沙汰なんて動物本能丸出しだよ。人間らしくない」
「しかしマア世の中にはよくある話だから仕方ないか」
桂馬は居たたまれなかった。

桂馬は一番の電車で仙台に向かった。仙台が、これほど遠く、電車がこれほど遅かったのかと桂馬は今までの帰省が嘘のように思われた。
フミは既に息を引き取り、自宅に帰っていた。
枕元に母と姉の曜子が並んでいた。
「桂馬、よく見ておきなさい。これが最後だから。お前をいちばん可愛がってくれたフミちゃんの顔を何時までも忘れないようにね」
母はフミの顔の白い覆いを取った。
桂馬はうつむき目を外した。今まで数回死んだ人の顔を見、恐怖をおぼえた記憶が脳裏を走った。
今のフミの顔を見るのが怖かった。
桂馬の脳裏に焼き付いた、何時も明るい、優しい顔が永遠に消え去るのではないかと怖かったからだった。
桂馬は操り人形のように座をたった。

桂馬は仙山線に乗っていた。
フミのそばに居るのが苦しく耐えられなかった。
寒河江の駅前交番で桜子の住所を確認したが足が向かなかった。
駅の待合室にひき返し腰を下ろし長塚節の「土」の文庫本を開いた。
活字は黒い固まりとなった。桂馬は諦め文庫本を膝に置いた。
待合の人達は静だった。
何を考えるともなく見るともなく、ただ座りつくした。
しだいに周りの光が薄れていった。
人影が現れた。
桜子だった。
薄色のワンピース、布地の靴、白いハンドバッグを両手で前に提げ、長い髪を後ろで無造作に束ねたいつもの桜子だった。
洗足駅で見た桜子の姿は微塵もなかった。
「桂馬さん、嫌いなコーヒー召し上がる?でもほんとはお好きなのよね」桜子は微笑んだ。知り合った頃、桜子にコーヒーに誘われ警戒心からコーヒーは嫌いだと断ったのだ。
「私ね、心の命ずるままに生き尽くしたの。もう私の中には何も残っていません」
桜子の姿に暗い影はまったくなかった。
「私は多分、母が見つけてきた山形の大学病院のお医者様とお見合いして結婚するのだと思います。私は母の命に従います。私はそれで十分です。“心が命ずるまま”と“母の命”とは正反対と思うかも知れません。でも時が経てば結果はまったくおなじだと思います」
「桂馬さんのこと一時忘れましたけど、これからは何時までも心の中で慈しみます」

バサ!
文庫本が床に落ちたのだ。
桂馬は顔を上げた。
桜子の姿はなかった。
桂馬は文庫本を緩慢に拾い上げた。
「桜子の今の想いに違いない。左千夫に、今の夢を伝えよう」
桂馬はホームに向かった。いつ来るとも知れない電車を待った。
幾筋も幾筋も涙が頬を伝った。桂馬は涙を拭かなかった。
桂馬はふたたびトラウマ、母の呪縛の中に帰っていった。

       つづく   「トラウマ」は終わり。次回は「出会い」


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