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03.27
Thu
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先日國栖を舞った。國栖は天皇制がまだ脆弱な時代の物語。
人の心の本質を題材にした作品を好んで舞って来たが今回は自分にとっては異色の作品だ。
舞おうと思ったきっかけは二つ。一つは題材が壬申の乱であり、古代のロマンを感じるから。
もう一つはシテが蔵王権現であり、蔵王権現は修験道の主尊と聞いたから。
いやいやそれもあろうが、小学一年の孫に初舞台を踏ませたかったのが正直なところかも。
友人に修験道の道者がいた。彼の話が面白かった。
修験道は日本古来の山岳信仰を元に自然との一体化を目指す日本で生まれた仏教の一派だそうだ。
(熊野三山と天台仏教との習合とも)山の中での修行で呪力を得ることを目的としたという。仏教は人の欲望から生まれる迷い、苦しみを救う教えだという。
修験道、仏教は異質に見えるが、凡夫故か。
でもでもミステックな修験道は魅力的だ。
“自然と一体”がいい。

さてさてこの能は先ずシテが登場してツレの婆さんに「姥や給え(婆さん見てご覧)」と云う。
古代を感じるのだ。古い言い回しかどうかは知らないがこの曲には幾つか例がある。
単なる短縮形とも思えない。
謡い方に意を用いるべきだろうか?などと考えたり。
先日或る能評を読んでいたら或る能の非論理的、非現実的な箇所を指摘したと思われる文章に出会った。
なるほど!を越えて衝撃的だった。能の中で起こる事象を何の疑いもなくごく自然に受け入れてきたからだ。
「鮎の段」、まさにその通りだ。
シテの爺さんが焼いた鮎を生きかえらせようと川に投げ込もうとすると、ツレの婆さんが「すじなきことな宣いそ。
放いたればとて生き返るべきことにもなし」という。
婆さんさえ生き返るなんて信じてないのだ!
能「山姥」では、遊女一行が深山越えしようとすると急に暗くなり山姥が現れる。
山姥は遊女一行を泊めるため「日を暮れさせた」のだという。
この非論理的な事を信じる人は今の世にはいないだろう。
然らば我々演者は意識の外で疑いながら演じているのだろうか?
信じているのと、いないのとでは演技上、大きな違いが出る事は当然だ。
こうした奇瑞を何の抵抗もなく信じた昔の人との差は大きいと思うと慄然!

 
杉並能楽堂

先日能楽師仲間の社中の会に呼ばれた。会場は杉並能楽堂。
静閑な住宅街にある歴史的な、大げさに云えば国宝級の古い能楽堂だ。建てたのは初代山本東次朗。
我が師、奥野達也の刎頸の友だ。
東京金剛会は多摩川から染井に拠を移したがここも時代の波に呑まれてしまい一時この杉並能楽堂で例会を催した思い出の能楽堂だ。
大先輩、水野武夫が「石橋」の子獅子を舞ったとき勢い余って橋懸の板を踏み抜いた、その修理後が残っていて懐かしかった。
東京金剛会はこの能楽堂の例会から観客が増えだした。
感謝、カンシャの能楽堂なのだ。
本題に戻ろう!我々プロの楽師に真似のできない衝撃的演技二つ。
仕舞「鞍馬天狗」と「玉ノ段」四十歳位と高校生。二人とも女性。
舞台いっぱいに自分自身を表現!これぞこの道の醍醐味だ!
彼女達の師いわく、「教えていないことを舞うから地謡は難しい」
プロは決められた「型」を習得するのに長い年月をかける。
この呪縛から解放され、自分自身の思いが舞えるのは芸域が進んでからだ。
いい勉強をした至福の一日だった。謝謝!!!しかし残念なこと一つ。高校生の彼女。
大学受験でしばらく「この道」はお休みとか。ああ勿体なや、もったいなや!
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03.09
Sun

節分草

カテゴリ:節分草
節分草
キンポウゲ科 本州、関東以西の林、草原に。石灰岩地帯を好む

派手な花を咲かせるキンポウゲ科のなかで、楚々と可憐な姿が魅力的だ。
10センチほどの花茎の頂上に1センチほどの花を1個咲かせる。花のすぐ下に切れ込みの深い葉が2枚リング状につき、まるでフリルかネックレスのよう。貴婦人の装いだ。この花に憧れる人は多く、寒さの中も厭わず野山を駆け回り探す。
しかし堀り取るのはたいへん。
地中深く、小指の半分くらいの塊茎から木綿糸のような細い茎を伸ばす。
堀りあげる途中切れてしまったらもう見つからない。花は早春、節分の頃咲くので節分草。エフェメラルプラント(短命植物)の仲間だ。カゲロウのように儚い命の植物という意味だそうだ。
初夏、他の草の葉が茂り出すと、葉や花茎は枯れ始め、土の中に塊茎を残し来年を待つ。
「能」には我が身の儚さ、命の儚さをカゲロウや水の泡、露に例えて嘆く人たちが多く登場する。中でも「藤戸」の主人公は深刻だ。「藤戸」は源平の戦いに巻き込まれて殺された若い漁師の物語。
「源氏方は藤戸(岡山県倉敷市)に、平家は児島に陣を張ったが間の水路が深く源氏方は攻められなかった。
源氏方の佐々木盛綱は所の漁師から馬で渡れる浅瀬を聞き出すがこの漁師がまた他に教えるのではと、漁師を殺す。盛綱はこの浅瀬を利して先陣を果たしその褒美に児島を賜った。」前場と後場とあり前場では殺された男の母親の嘆きを描く。
母親は支配者の盛綱に「我が子返させ給えや」と迫る、圧巻だ。いつの世でも母親は強い。加害者である盛綱はこうなったのも「前世の報いだ」と母親を説得する。今の私たちには理解できないが、当時の宗教観だ。
後場は殺された男が幽鬼となって現れ「泡沫の哀れに消えし露の身の」と述懐し、殺された場面を再現して見せる。
竹の杖を刀に擬し刺し殺す場面はリアルにして過激的な迫力だ。
人とは何?考えさせられる名作。 
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03.01
Sat

カテゴリ:
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梅 バラ科、櫻属 中国原産
  

万葉の昔から櫻とならんで日本人に最も愛された花。おおかたの植物が活動を停止、眠っている早春、葉に先だってく。白、赤、ピンク、一重、八重。陰気な冬の名残の景色を彩る。何と言ってもその香りだ。昔から詩歌に詠まれ家紋にも名を残す。
果実は梅干し、ジャム、梅酒など用途は広い。好き者は酒の肴に塩をつけて生食するが多食すると危ない。青酸系の毒を含んでいる。
バラ科の梅の仲間には名だたる果物が多い。りんご、梨、いちご、さくらんぼ、カリン。などなど。
梅は好文木の美称をもつ。好文木抄「帝、文を好み給いければ開き、学問怠り給へば散りしおれける梅は有りける。好文木とぞいひける」とあるそうだ。梅の名所、水戸の偕楽園の中に好文木亭という土産物屋がある。
バラ科には目立つ特徴がある。根本や幹から太く長い新芽を伸ばす。大げさだが、まるで虚空を突き刺す如くに。梅や桜バラなどに顕著だ。通称「シュウー」とよぶ。シュウーと伸びるからだろうか?このシュウーが出なくなるとこの木は間もなくご臨終だ。「春雨に二尺伸びたるバラの芽のハリ柔らかに春雨の降る」この新芽を詠んだ句だ。古い記憶なので大いにあやしいが。
能に梅を主題にした作品に「胡蝶」「東北」がある。
「胡蝶」は蝶の精が主役。蝶は梅の花の頃はまだ,さなぎで冬眠中だ。梅の花に縁がない身の上を悲しむ蝶の精を、僧が法力で梅の花と縁を結ばせるという清らかな童話風の作品。クセ(曲の中心部)に源氏物語の一場面を取り入れ薫り高いく、キリには梅の花に舞い戯れる蝶の舞い姿が美しい。
「東北」は梅の香をつてに、王朝の香気を香らせる幽玄能の代表作だ。
象徴的、抽象的な型(振り付け)に終始して、そのものを表す具体的、具象的な型は少なく極めて能的な作品だ。
シテ(主人公)は和泉式部。平安を代表する歌人の一人で、あまたの浮き名を流した人としても有名だ。
こうした和泉式部のイメージを払拭して梅の花のように清楚な作品に仕立てている。
わずかに、キリ(終曲部)に「げにや色に染み香に愛でし昔を思い出ずれば我ながら懐かしく」(色恋になじんだ昔が懐かしい)と謡うが何か取って付けた感がしないでもない。詳しい解説は『曲目の解説」をご覧ください。
和泉式部の逸話を一つ。
藤原保昌(平安中期の武士。源頼光の家来とも)と結婚した式部は、一時、保昌に疎まれたことがあった。式部は貴船神社に参籠して夫婦和合の祭りを巫女に頼んだ。巫女は式部に着物の前を掻き上げ鼓を打ち鳴らし踊り狂うよう命じた。あまりの卑猥さと恥ずかしさに「千早ふる神の見る目も恥ずかしや、身を思うとて身をば捨つべき」(歌意―。思い悩むからといって我が身を捨てることはできない。)と詠んだ。
この様子を木の陰で見ていた保昌は「私ならここにいるよ」と躍り出、式部を連れて帰った。保昌の愛はさらに深くなったと云う。

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