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2015年1月23日館山市沖ノ島で写す

美しい花だ。すっきりと伸びた葉と花茎。花茎の頂に白い花。花弁の真ん中に黄色い杯。神様の芸術。清らかな香りも一級品。水仙とは水中の仙人。仙女のような姿だ。

水仙は地中海沿岸が原産地。遥か昔シルクロードを経て渡って来たという。室町時代の国語辞書「下学集」に漢名、水仙華。和名、雪中華とあると云うから、かなり昔から親しまれて来た証しだろう。和名、雪中華は寒い時期に咲くから。いつの間にか和名は使われなくなり、漢名水仙になってしまった。暖かい海岸に自生している。交配種も多い。伊豆半島では手厚く保護されている。房総半島では海岸近くの道路端、藪などまで、ふんだんに見られる。球根はヒガンバナのように毒があるそうだ。

写真を撮った場所、沖ノ島は房総半島の突端、東京湾の出口にある周囲1キロ程の小島。砂が堆積していて歩いて渡れる。
島の真ん中に広場がありトイレもある。釣りや海水浴の人が多いのだろう。砂浜にたき火の跡があった。キャンプができるのだろうか。小さな神社があった。酒の空き瓶に水仙が一本供えてあった。花はすでに散り青い実になっていた。葉も花茎も青々と、この花の生命力を思わせた。

水に住む妖精といえば「猩々」。酒を好み人の言葉を喋る。もともと中国の妖精だが日本では河童以下に扱われた。水仙のイメージとはほど遠い。この可哀想な「猩々」を水仙のイメージに近づけた能がある。「猩々」だ。まず姿がいい。赤い頭髪、笑みを浮かべた赤い面、女の着る唐織を着、赤い袴をはく。美しい少年の姿だ。能の面で笑みを浮かべた面はこの猩々だけ。赤は酔いを表すが、又赤はお祝いの色でもある。
この水中の妖精、猩々が浮きやかに酔態の舞を舞う。祝言の曲だ。「舞」を見せる能でストーリーは単純。「親孝行の男が孝行の褒美に霊夢を授かる。夢に従い市で酒を売ると毎日猩々が現れ酒を飲み、男に汲めども尽きない酒壺を与えた。男は裕福になった」
この能の特殊演出に「乱(みだれ)」がある。波の上の酔態の舞を強調する。かなり難度の高い舞で能楽師が一人前と認められる前に通る三つの関門の一つ。

雪は水の結晶。雪の精も水の精でいいのでは。雪の精の能に「雪」がある。小品ながら味わいのある美しい能だ。儚く消えていく雪の、短い命の運命を主題にする。後を託す僧に報恩の舞を見せる。月下の雪原に舞う、水仙のような仙女の清らかなイメージがひろがる。
装束は白が基調。袴は浅黄にする事が多い。浅黄は水の色、氷の色。白とのコントラストを考慮して。日本人の色彩感覚だ。

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01.18
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2014年10月12日 小平市サイクリングロードで写す

葉に悪臭、つまり嫌な匂いがあるのでついた名だそうだ。全国どこにでもある木。夏、枝先にテイカカズラに似た白い花が、かたまって咲く。その実が美しい。暗紫色の怪しげに底光りする輝きは黒真珠にそっくり。昔は着物の染料にしたという。なるほどとうなずける。
葉の悪臭はその美しい実を護るためかもしれないと思ったりする。この臭い葉を人間が食べるのだ。なんでも食べてみる人間、どんな動物よりもどう猛だナと。
昔、祖母がこの葉を茹でてザルに干してあったのを母が見て「なにも、こんなもの食べなくても」と呟いていたのを思い出す。
幼い時の記憶で、さだかではないが祖母が味噌汁の具にして食べさせてくれた。臭みはなく、とろりとしていたように思う。
薬にもなるらしい。昔、といっても4,50年前までは、ちょっとした病気、風邪や腹痛、下痢などは民間薬で治した。野山の草や木だ。特に苦みや臭み、形など、特徴のあるものに薬効があると信じられていたようだし実際そのようだ。
 
幅広の葉のクサギやアカメガシワ、高菜の葉までゴサイと呼ぶ地方がある。ゴサイは御菜葉の短縮。菜を盛る葉という意だという。昔は神のお供えをこれらの葉に乗せて供えたと聞いたことがある。人の手で作ったものでない清浄無垢の器で神に捧げるということだろう。

能「半蔀」では夕顔の花を神に供え「手に取れば、手ぶさ(手首の意)に穢る立てながら、三世の仏に花奉る」と謡う。
能「半蔀」は、源氏物語「夕顔の巻」の脚色。まぼろしのように儚く死んでいった、薄幸の女、夕顔と光源氏の出会いを焦点に,情緒のベールをかけ、おぼろ、朧と描いた作品。「雨夜の品定め」で、弱々しく内気な性格、又、無邪気な子供っぽい性格と評された夕顔の性格や、女の「いとおしさ」をも思わせる作品。
「夕顔の巻」からの作品にはもう一曲、世阿弥の自信作「夕顔」がある。「半蔀」と対をなすように全く趣の違う作品だ。ひたすら薄幸の女を描き源氏との愛の文言など無いに等しい。荒れ果てた「某の院」で取り殺される夕顔を語るクセは戦慄だ。薄幸の運命を背負った夕顔の霊は僧の弔いに成仏する。鮮烈な共感と安堵感が迫る。
この二つの作品、「半蔀」は名も無い人の作品、「夕顔」は能の大成者、世阿弥の作品。しかし上演頻度は断然「半蔀」が多い。世の人は悲恋よりも甘い恋物語を好むようだ。冗談が過ぎるようだが。
   詳しい解説は「曲目の解説」をご覧下さい。
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01.12
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富士山の残照 武蔵境駅前スイングホール9階から写す。 平成27年1月11日
この話の要旨:
砂内桂馬。団塊の世代生まれ。桂馬に老いの前兆が現れたのは或る夏の朝だった。妻、温子の面影に誘われ、二人の想いでの地、信州の車山に彼の姿があった。想い出から覚めた桂馬を焦燥感と空虚感が襲った。以来公園のベンチや路傍の石垣にもたれる彼の姿があった。虚空に向けられた彼の空ろな視線の行方は「思い出」という「残照」が去った後の空虚だった。道を行く人々は哀れむかのように見て通りすぎた。

        
桂馬の祖母の旅館は歓楽街に近かった。夕方近くには、ここで働く女達が洗い桶を抱え下駄を鳴らして銭湯に通った。女達は表で遊ぶ桂馬に声をかけた。「坊や、可愛いね」女達の後ろに脂粉の香りが漂った。祖母や母にはない匂いだった。
「おばあちゃん、おねえちゃん、いい匂いがしたよ」帳場でタバコを吸っていた祖母はタバコの灰を落としながら笑い出した。
「あまえも男かね。五歳の男かね」
笑う祖母の、数本並んだ金歯が光った。桂馬は笑う祖母の金歯が怖かった。
祖母は急に真顔になって、金歯の口をきっと結び目を剥いて、
「桂馬、大きくなっても、あのおねえちゃん達と遊んだらだめだよ」眼鏡の奥の目はしばらく桂馬を見据えていたが、また急に笑い出した。
桂馬はこの時のことを生涯忘れることが出来なかった。
祖母は桂馬を可愛がった。旅館の暇な時間によく桂馬を呼んだ。送り迎えは、まだ幼顔が残るお手伝いの少女、フミだった。フミと桂馬はいつも手をつないで歩いた。握った手を振りふり歩いた。歌は何時も「お手々つないで」だった。桂馬は時々フミの顔を見上げた。小さな丸顔に、澄んだ大きい目がきれいな娘だった。
「フミねえちゃん、どうしてあのおねえちゃん達と遊んではいけないの?」
「う~ン」フミは少し考えてから、
「わかンないナ、お母さんに聞いて」桂馬の顔をのぞき込みニッコリ笑った。
歌を聞きつけた母は玄関を出て待っていた。母はフミに小銭を握らせて、「ありがとう」と帰って行くフミの背中に四、五回手を振った。桂馬も振った。
フミは振り返り「ありがとうございました」とていねいにお辞儀をした。きれいな姿だった。
「お母さん」桂馬は母の背中に呼び掛けた。
「おばあちゃんがネ、ぼくが大きくなっても、おねえちゃん達と遊んでは駄目だって。どうして?」
「え?どこのおねえちゃん?」
「おばあちゃんの家の前を通る、きれいなおねえちゃん。いい匂いがするよ」母は桂馬をジット見つめ、しばらくして、
「いま忙しいから後で」と台所の暖簾にきえた。
母は桂馬との遣り取りに慎重だった。それは桂馬が幼い時だけで長ずるに従って影をひそめた。桂馬には母の不思議な部分の一つだった。
その晩、母は桂馬の枕を引っ張った。
「桂馬、きれいなおねえちゃんのことだけどネ。おばあちゃんの家の近くにいる。きれいにお化粧して、いい匂いの。おばあちゃんが云うように、大人になっても遊んだらだめ。忘れたら駄目よ。何時までも」
「どうして駄目なの?おねえちゃん達、悪い人?」
「そうじゃあないのよ。み~んないい人よ」
「だったらどうしてだめなの?」
「自分が悪い人になるから。今は小さいから桂馬には分からないけど大きくなったら分かるよ」

その朝、桂馬は遅くまで目が覚めなかった。
「桂馬起きなさい。フミねえちゃんが迎えにきますよ」襖の外から母の声がした。
「今日は曜子姉ちゃんと行きたい」
「曜子は学校です。とっくに学校に行きました」母の返事は素っ気なかった。
桂馬が朝ご飯をすませた頃玄関が勢いよく開いた。
「おはようございます」元気な声が聞こえ、身の丈ほどの篠竹の竿をかついだフミがニコニコしながら立っていた。
母はエプロンで手を拭き拭き玄関に向かい
「あらどうしたの?フミちゃんその格好?」
「今日は暇なので、どこかで遊んで来なさいって、おかみさんに許可をもらいました。けど、わたしまだ友達がまだいません。桂馬ちゃん貸して下さい。ザリガニ釣りします」フミは竿を突きだして見せ微笑んだ。
「あらいいわね。お願いします。大漁だといいね」母も笑いながら応じた。
川まではかなりの道のりだったが二人のおしゃべりは尽きなかった。
「フミ姉ちゃん、ちっとも匂いしないね、どうして?」
「さあ、どうしてでしょう」
「お祖母ちゃんも少し匂いするよ。お母さんも少し」「お母さんがお使いでなかなか帰ってこないときお母さんの着物に鼻、くっつけるの。やさしい匂いだよ」
川は浅く向こう岸に砂が盛り上がり草が茂り水面まで垂れ下がっていた。
フミは竿の先に木綿糸を結わえ付け、木綿糸の先にスルメの足を結び付けた。
「ハイできあがり。よ~し、おねえちゃんの手くらいの大物をつるぞ!」
勢いよく向こうへ投げ込み桂馬に竿を手渡した。
桂馬は竿を上げたり下げたり、ザリガニが食いつく暇がないのか、なかなか釣れなかった。
「あっ、カラス。見て」
フミが指差した。二羽のカラスが鳴き交わしながら飛んでいく。
「きっとお父さんカラスとお母さんカラスよね。赤ちゃんカラスが待ってるのよ、きっと。こんな歌知ってる?」
「カラスなぜ鳴くの、カラスは山に、可愛い七つの子があるからよ」
「知ってる。この歌すき。ぼく上手だよ。隣のおばちゃん、ほめるよ」
「あらほんと。こんど聞かせて」
「いいよ。歌ってあげる」
「カラスはネ、とっても賢いんだよ。人間の言葉をしゃべるの。お兄ちゃんのお友達が、カラスを飼っていてネ、その子の名前が勝良っていうんだけど朝、カチュラ、オキナチャイって、勝良のお母さんの真似するの。そのカラスね、勝良のお兄ちゃんが山から赤ん坊カラスを捕まえてきたんだって。わたしのお兄ちゃん、それが羨ましくてね。わたしを連れてカラスの赤ちゃん、捕まえに行ったんだよ」桂馬の目が輝きだした。
「僕もカラスの赤ちゃん、捕まえに行きたい。ザリガニは止めて行こうよ」
ザリガニはまだ一匹も釣れていなかった。フミは笑いながら竿を上げエサを向こうへ投げ込みながら、
「無理、無理!カラスは怖いよ。命がけで赤ちゃん、守るンだから」
フミは兄に連れられてカラスの雛を捕まえに行ったときの恐怖が甦った。
フミには五才年上の兄がいた。フミの兄は優しい少年だった。いつもフミと一緒だった。カラスの巣は父から教わった。お寺の山道を通るとカラスが集まり、やかましく鳴き騒ぐことがあった。
フミの父は松の木を見上げ梢の方を指差し
「あそこにカラスの巣があるんだよ。近づくと頭をつつかれるぞ。近寄ったらダメだよ。カラスは子煩悩なんだ」「お父さんだって、お前達を誰かがさらい来たら必死に闘うよ、カラスだっておなじだよ」
兄はカラスが生まれる時期と場所を覚えていたのだ。兄は友達をも誘わずフミだけを連れてお寺の山道へ向かった。
腰に竹の棒を差していた。
「兄ちゃん、その棒、なににするの」
「これか」兄は振り返り棒を抜き刀のように振り下ろしてみせ
「カラスが襲ってきたら、こうやってカラスをたたくンだ。護身のボウ」
「カラス、かわいそうだよ」
「オレだってこわいンだよ。この棒のこと、勝良に教わったンだ」
松の木に近づく、とどこからともなく二羽のカラスが現れ忙しく飛び交い鳴き騒いだ。兄はフミを見て「よし」とうなずき松の木に登り始めた。カラスの鳴き声は更に烈しくなった。応援に来たのか数羽のカラスが混じり合い松の幹をつつき、周りの木の枯れ枝を折り兄に体当たりするかのように掠め飛び威嚇した。カラスはフミの頭上をも掠め飛んだ。フミは頭を抱えうずくまり絶叫した。
兄はカラスの子を捕まえられなかった。兄はフミに
「お前が、止めてと泣いて騒ぐから止めたんだ。怖かったからじゃあないぞ。カラスも可哀想だしナ」
フミは兄の恐怖心よりも優しさを思った。
 フミはカラスが子を思う心を桂馬に教えたかったからだけではない。フミはあの頃、今の桂馬の年頃だったし、兄や父の優しさが甦ったからだ。

フミは釣り竿を放り投げて、幼い桂馬に、さも友達に話すかのように身振り手振りでカラスの恐怖を話した。フミの話は幼い桂馬に衝撃だった。フミの恐怖心はいつのまにか桂馬のものになっていった。

桂馬は、日常の生活にないメイク、例えば歌舞伎や演歌の歌手、芸者の映像を見ると、祖母や、歓楽街の女の脂粉が、カラスの恐怖と抱き合わせに甦り、胸を圧迫した。これがトラウマというものだろうと桂馬は思っている。

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平成14年10月25日 調布市 都立野川公園で写す

珍しい花ではないが、平地の道ばたや空き地にもあるというわけではない。例えば奥多摩や高尾山あたりの山地まで足をのばせば普通に見られる。
行儀よく並んだ葉の付け根に2,3個の花を付ける。白地に紫の斑点が珍しい。この紫斑が野鳥のホトトギスの胸毛の模様に似るので付いた名だそうだ。愛好者も多く、よく庭や鉢植えを見かける。ホトトギスの仲間は10種類ほど、黄色の花の種類が多いようだ。黄花のヤマホトトギスは、たまに見かけるが他の種類、例えば、何々ジョウロウホトトギスなどは園芸店で見るだけで自然のものにお目にかかったことがない。是非その艶姿を拝みたいものだ。数年前訪ねた、富山と新潟の県境にある「山姥の窟」の前に咲いていたのもヤマホトトギスだった。

ホトトギスの若芽は山菜。茹でると、ほのかにキュウリの香りがする。キュウリ草ともいうらしい。さほど美味しくはないが、ナガバノスミレサイシンと混ぜてビールのつまみに結構な一品。

ホトトギスの名前の由来となった野鳥のホトトギスは漢字で時鳥、子規、不如帰など八ツほどの字を持っているというから驚きだ。呼び名も、うずきどり、夕影鳥、死出の田長、など十余り。それ程、人の関心を引く鳥なのだろう。昔から詩歌などの文芸に登場する常連だ。俳人の正岡子規もペンネームに拝借した。
ホトトギスの名はその鳴き声からではないかとの説も。「てっぺんかけたか」「ほうちょもってこい」などと聞こえ、昼夜を問わずなく。生態も変わっている。自分は巣を作らずウグイスなどの巣に卵を生み育てさせる横着者だ。

この横着者の習性を拝借した能がある「歌占(うたうら)」だ。歌占は中世に流行った占い。和歌の歌意によって運勢、吉凶を占った。
二次大戦後、経済的に未曾有の豊かな世の中になった。神様にお願いする事が少なくなったのか、無信心の人が多くなったと思う。(人様の事は云えないが)。こんな人にぜひ観て貰いたい能が「歌占」だ。

能「歌占」はあの世という異次元の世界を描き出した能。現世利益だけではない、唯々恐ろしい神の存在を思わせる能だ。
神官の姿で「地獄の曲舞」を舞う。神仏混淆が背景にあるが、現代人の我々には異様だ。しかもこの神官は若いが白髪、地獄の苦しみで白髪になったのだが、この異様な姿で地獄の責め苦や、神が乗り移った様を見せる。異様は怪奇に変じて行く。「地獄の曲舞」を見せた後、神が乗り移る。神の怒りに悶え苦しむ終曲の舞もクセに次ぐ見どころ。「神は上らせ給ひぬ」と、御幣を肩越しに放り投げ、神が身から離れた瞬間を表現する。単純にして完璧な演出だ。
おおよその事が理論的に解明された今の世だが、仏教の世界観、須弥山を説く辺りもいい。荒唐無稽のように見えて何か考えさせられる。

能「歌占」のあらすじ。
伊勢の神官、渡會の某は神にお暇をせず旅に出、その神罰で急死、地獄の苦を受ける。三日後に甦ったが地獄の苦しみに白髪となった。その後、歌占をなりわいに諸国を巡り白山の麓にやってくる。故郷に残した子も父を求めて白山にたどり着く。子は歌占を引く「鶯の卵の中のホトトギス。己が父に似て己が父に似ず」鶯の巣で生まれたホトトギスの子は親のホトトギスと違う声で鳴くという意の万葉の歌だという。親子はホトトギスの縁で巡り会う。
詳しい解説は「能曲目の解説」をご覧下さい。
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