FC2ブログ
05.31
Sun
IMGP2025.jpg
南アルプスの残照 5月26日甲府市の路上から写す

次第
竹内桂馬。団塊の世代。忘我の社会生活から遠ざかって久しい。緩んだ時間と空気が過去を薄めていく。突然過去の記憶の断片が桂馬を襲う。桂馬は過去に立ち返る。それは残照だった。いっきに輝き静かに消えていく。残照が去って空虚が桂馬を包んだ。(次第の意味は残照 10 トラウマ(2)その1 をご覧下さい)

前回のあらすじ。
桂馬は従兄弟の友人、久徳に連れられて行った渋谷の音楽喫茶に行った。偶然知り合った女子学生三人組と新宿の歌声喫茶「カチュウシャ」で再び出会った。
その中の一人が桂馬に頼み事があるという。久徳と三人、渋谷で会う約束をした。
ハチ公前に現れたのは寒河江出身の娘一人だけだった。桂馬は当惑した。

「久徳さんは来ないンですか」桂馬は視線を落とし呟いた。
「わたしのお願いですので久徳さんは来なくてもいいンです」
「いや。僕が困るンです」
「あら、どうして?わたしが嫌ですか?」色白の丸顔を崩してニッコリ笑った。桂馬はドキリと目を落とし、馴れ馴れしい云いようだな、カチュウシャで友達になったつもりなのかなと思った。
「わたしが知ってる喫茶店があるの。行きましょう。コーヒーも美味しいけどケーキが美味しいの」
「いや、僕はコーヒー、嫌いです。ここでいいです」
「大事なお願いなんです。ここではあまりにも」
「頼みは何ですか?君に頼まれる程のもの、僕は何も持ってないけど」
「まア」寒河江娘は桂馬を上目づかいに見て
「仕方ないわ、ここに座りましょう」、ハンドバッグからハンカチを二枚取りだし花壇の縁石に敷いた。
「僕はいいです。汚れて困る程のもの穿いてないから」とハンカチを突きだした。
寒河江娘は気色ばむ様子もなく笑いながらハンカチを受け取った。
突然、数台のバイクが轟音を引いて通り過ぎた。二人の顔がバイクを追った。寒河江はバイクの行方に顔を向けたまま
「桂馬さんもバイク、好きですか?」
「え?どうして僕の名を?」
「久徳さんに聞いたの。素直でいい子だよ、ですって」
「バイクは嫌いだ。表だって自己主張するのは、もっと嫌いだよ」桂馬のぶっきら棒な答えに寒河江娘は桂馬の心の中を探るかのように笑顔を向けた。
桂馬は寒河江娘の透き通るような丸顔をまともに見ることが出来なかった。しだいに身体が硬直していくのを感じた。
「お願いですけど、卒論を書いていただきたいの」
「え?卒論?」全くの予想外だった。
「来年、卒業なんです。私、文章全然だめなの、書けないンです。久徳さんに相談したら桂馬さんが最適とおっしゃるので。お願いします」
「僕だって書けないよ。卒論なんてとんでもない」
「久徳さんの妹さんに弁論大会の原稿、書いてあげたンでしょう?聞いたわ。久徳さん絶賛してた。だからお願い」寒河江娘は両手をこすり合わせた。
「中学生の弁論大会と卒論では次元が違いすぎるよ、駄目です」
いきなり寒河江娘の白い手が伸び桂馬の左手を捕らえた。もう一方の手で紙袋の紐を桂馬の手に掛け
「資料が入ってます」寒河江娘の手の温もりが桂馬の心臓を揺さぶった。それは桂馬に承諾を強いた。強引さなどまったく感じる余裕がなかったのだった。
「先生がフォークナー論がいいのではとアドバイスを頂いたの。紙袋のなかにフォークナーの代表作が入ってます。」
「フォークナー?知らないな、もしかしてアメリカの作家?」
「そうです。十数年前のノーベル賞作家です。始めに、フォークナー短編集、を読んで下さい。フォークナーの行き方が凝縮されてるそうです」
「外国の小説は苦手だナ。ノーベル賞なんて読みこなせないよ。僕は永井荷風を尊敬してるんだ。濹東綺譚が好きだよ。だから天丼も大好きだ」思いつきの皮肉だった。
「え、天丼?」
「天丼は荷風の好物」ボソリと付け加えた。

桂馬は色町の近くで育った。母は桂馬に、女に対する警戒心を幼い時から植え付けた。桂馬がそれを意識し出したのは思春期の頃だった。母の思惑は解らなかった。桂馬は、ただ当たり前のように受け入れたのだ。
近所の若い女の子は勿論、高校のクラスメートの女の子と親しく話をする事もなかった。その反動だろうか、桂馬には大人になっても、心の中に理想の女性像があった。幼い頃、祖母が営む旅館のお手伝いの少女、フミだった。長ずるに従い理想を肉付けしていったフミ像と、会う女性を比較するのが常だった。

「大変なお仕事、お願いしてすみません。自分の無能さに腹が立ちます。よろしくおねがいいたします」立ち上がった寒河江娘は丁寧にお辞儀をして、ハンドバッグから二つ折りの紙片を取り出し桂馬に差し出した。
「住所と電話番号など書いておきました。まだ資料がお要りでしたらお電話下さい。電話は呼び出しです。下宿のおばさん、うるさいの。おばさんに用件を説明してください。お願いします」バラの花に縁取りされた便箋には、住所と電話番号、直江桜子と小さな字で書いてあった。
「今日はこれで帰りますね。途中までご一緒にと云いたいところですけど、桂馬さん今日はご機嫌すぐれないようですから先に帰ります。論文の構想が出来ましたら要旨をまとめて頂くとありがたいです。先生に見ていただきますので」桜子は大きなリボンの帽子を頭に載せ改札に向かった。裾広のワンピースの後姿が美しかった。桜子は振り返り手を振った。
桜子の身体から放射される不思議な気に、桂馬の警戒心は緩んでいった。
桂馬は緩慢に立ち上がり渋谷駅前の雑踏を、恵比寿側の改札へ向かった。桜子の笑顔が甦った。桜子は意地の悪い桂馬の受け答えを気にしていないのか、気がついていないのだろうかと桂馬は思っていたが、別れ際に「桂馬さんはご機嫌がすぐれないようですから」と云った桜子の言葉が桂馬の胸を徐々に締め付けていった。
「書かなくては」「よし」桂馬は心の中で叫んで改札に急いだ。

桂馬は大学の図書館に籠もった。独特な翻訳の文章とアメリカという外国の生活、習慣の不十分な理解に苦しみながら短編集を繰り返して読んだ。満員の電車でも、家でも読んだ。
「桂ちゃん、彼女から電話よ」階段の下から叔母の声が聞こえた。
「え?彼女?だったら、まだだ,と云って」
「それだけでいいの?」
「いいんです」電話は桜子だった。成り行きを確かめる電話だった。
論文の要旨をまとめるのに三ヶ月も掛かってしまった。途中で嫌気がさし中断することもしばしばだった。
桜子に原稿を送ってしばらくして、桜子から電話があった。桜子のこえは弾んでいた。
「有り難うございました。ほんとは、わたし書いて頂けるのかどうか半信半疑でしたの。うれしかったわ。清書して先生に目を通して頂いたの。いいのが出来そうだねって仰って頂きました」
卒論を仕上げるのに、そう時間は掛からなかった。女性らしい文体に清書するようにと手紙を添えて桜子に送った。
数日して又桜子から電話があった。
「今日先生に見て頂くようお渡ししました。私が一番乗りですって。うれしいわ。そうそう先生の奥様、私と同じ山形の寒河江出身ですって。私って訛りがあるでしょう、それで気がついたようです。遊びにおいでって仰って頂いたわ。お住まい、江ノ島の近くの腰越ですって」
その後、桂馬は桜子から腰越の教授宅に一緒に行って欲しいと度々誘われたが桂馬は応じなかった。警戒心は薄らいだが恥ずかしさもあったからだ。
秋風が立ち始めた十一月初め桜子からの葉書が舞い込んだ。桂馬の脳裏から桜子の面影が薄くなりかけていた頃だった。
桂馬は躊躇もなく返事を書いた。「日時と場所を知らせたし」“うるさい”という下宿のおばさんの目を考えての事だったが、あまりの愛想なしの文面と、躊躇なしの性急な返事に我ながら苦笑したのだった。

二人は東京駅から横須賀線に乗った。二人の会話はほとんどなかった。桜子の話に桂馬が乗らなかったというか、どう返事をしていいのかわかったのだ。つまり動転していたのだ。桂馬は仕方なしに目を瞑った。桜子は時々目を瞑った桂馬の顔をのぞき込み
「ごめんなさい無理にお誘いして」とか「ご迷惑?」などと云った。桂馬は薄目を開け
「いや」とだけ答えた。桜子は楽しんでいるようにも、からかっているようにも思えたが嫌ではなかった。桂馬にとっては質量十分な会話だったからだ。

教授の家は腰越漁港の上の高台にあった。奥さんが出迎えた。奥さんは桂馬を見て
「貴方の彼氏」と笑顔を桜子に向けた。
「いいえ高校の同級生です。同郷の奥様に会わせたいと思って」
「さすが寒河江男子、ハンサムね。大学も一緒?」桜子は口に手をやりクスリと笑って
「奥様、彼は男性です」
「あらいやだ。私達の学校、女子大ですものね」と豪快に笑った。東北の女性にしては磊落な人柄なのだろう。桂馬の緊張は一気に解けた。
桜子と奥さんの話題は寒河江に終始した。寒河江を知らない桂馬はただ相づちを打つだけだった。
「あ、そうそう、主人ね、急に歯が痛み出して歯医者さんに行ってるの。もうそろそろ帰る頃だと思うけど。もう少し待って」
教授はなかなか帰ってこなかった。頃合いを見計らい桜子が
「奥様又出直します。先生にお大事にとお伝えください」奥さんは熱心に引き留めた。
二人は国道を江ノ島の方向へ歩いた。
「水族館に行きません?」桂馬はコクリとうなずき時計を覗き込み
「駆け足で見て回ろう」答えが明るかった。
海岸に降り立つと弓なりに曲がった海岸線の左に江ノ島が近かった。右の遥か彼方には富士山が浮かんでいた。頂上付近に白い雪の帽子が見えた。秋の日はかなり西に傾き富士山が赤みをおびていた。
「きれいね。寒河江は海が遠いから。こんな絶景初めて。絵のよう」
桜子が急に立ち止まった。桂馬の前に立った。
「桂馬さん、私の肩と頭を額縁にして富士山、見て。きっと広重の絵よ」桂馬は云われるまま少し腰をかがめ肩越しに富士山を見た。二人はしばらく立ち尽くし富士山を見た。
無言で富士山を見つめた。
桜子がくるりと桂馬に向き直り桂馬の両肩を掴んだ。桂馬の唇に電撃が走った。一瞬だった。二人は顔を見合わせたまま自失して立ち尽くした。
     つづく





comment 0
05.23
Sat
IMG_0943.jpg

IMG_0945.jpg
2015年5月3日 東京都小平市の小川で写す。

IMG_0948.jpg

IMG_0949.jpg
2015年5月3日 多摩湖堤防の下で写す。

初めてこの花に出会ったのは大阪の住吉大社であった。程々の池に植えられていた。深い紫色は深い群青色に近かった。その美しさにすっかり魅せられたのだ。
野性の花にどうしても会いたい花が三つあった。カキツバタ、シラネアオイ、ヤマシャクヤク。植栽の花でもその美しさは格別だから。

先日、武蔵野市の浄水場から多摩湖に通ずるサイクリング道路をボロ自転車で走った。途中、小平市辺りの、両岸こんもり木に覆われた小川でこの花に出会った。その感激は心臓が止まる程だった。思い掛けない出会いだったから。
ベンチに腰掛け杖を抱え込んだお爺さんがいた。この花のことを聞いたら「昔は小川いっぱいに咲いていたが戦後、それも最近メッキリ少なくなってご覧の通りだよ」。
花の色と云い、お爺さんの話といい野性に間違いないと確信した。

シラネアオイは十数年前、岩手と秋田の県境、「見返り峠」で出会った。これも思い掛けない出会いだった。六月の末、まだ残雪があった。雪の上にシラネアオイの花が一輪挿してあった。岩と木につかまり恐ろしい急峻な谷をおりて行ったら群生していた。感動は未だ消えない。

ヤマシャクヤクにはまだ会ってない。松本の奥、鹿教温泉で葉の形が似ているのを頂いてきた。葉がテカテカしてはいるが、もしかしてと思ったのだろう。果たして次の春、黄色い小花をつけた。まったく違うものだった。思い込みは全てを誤る。だが十数年経った今も黄色い小花をつけて健在だ。どんな花でもよくよく見れば可愛い。

カキツバタの名の由来は「書き付け花」。昔この花を布にこすりつけて染める行事があったという。普通、杜若とか燕子花と書くが間違いだそうだ。だが“杜若”のほうが通りがいいし一般的だから仕方がないか。
花茎が短いのが欠点と云うが、花の上にツンツンと尖った葉っぱの先が突き出て槍に似ていて、花を守っている様な風情がいい。花色の紫は高貴な色。能では紫の装束は主に高貴な女性用だ。

キショウブ。黄色の杜若と思い込んでいたら黄色いショウブだそうだ。それも西ヨーロッパから明治時代に輸入されたものだという。今では至る所で野生化している。川岸のしめった所に雑草に混じって咲き、鮮やかな黄色の自己主張が目を引く。

能、「杜若」では東国行脚の都の僧が杜若の名所、三河の國八つ橋で「かほよ花とも申すやらん。あら美しの杜若やな」と感嘆する。今でも別名「かおよぐさ」顔佳草ともいうそうだ。美しい顔の花は言い得て妙とガッテン。
能「杜若」は杜若の精が伊勢物語の恋の世界に誘う。杜若に眺め入っている僧の前に現れた女は杜若の精であった。女は我が家に僧を招き入れ、業平の冠、高子の妃の御衣を着て再び現れる。女は、杜若の精、高子の妃、業平が契った数々の女、業平自身が渾然一体となったかのように伊勢物語を艶やかに語る。
「クセ」では伊勢物語「東下り」が語られる。「東下り」といいう悲哀を、美しい詞章が詩情に変え、業平は実は陰陽の神、男女の仲を司る神だと結ぶ。“草木心無し”といいながら杜若の精を登場させ、昔男業平「陰陽の神」論、説得力だ。クセを語り終え、陰陽の道を賛美するかのように浮きやかに「序ノ舞」を舞い「昔男」業平と、美しい杜若を賛える美句を連ね終曲となる。
能「杜若」の詳しい解説は「能、曲目の解説」をご覧下さい。
comment 0
05.16
Sat

IMG_0893.jpg

IMG_0894.jpg
ヤマブキ草 2015年4月17日調布市都立野川公園で写す。

IMG_0970.jpg
ヤマブキ 2015年5月9日 長野県入笠山で写す。

IMG_0953.jpg
クサノオウ 2015年5月5日 裏高尾で写す。

鮮やかな黄色。草丈に負けない大きめの花を盛大に咲かせる。きれいだナ、思わず口からこぼれる。山吹は誰もが知っている花。こちらは木。ヤマブキソウは山吹そっくりの花を咲かせる草。手折ると黄色い汁が出る。ちょっと気味が悪い。衣服に付けないようにご用心。
クサノオウ。山吹草の兄弟分。草の黄、又は王と書くそうだ。「黄」は納得だが「王」が解らない。枝分かれが多く小さな毛が密生、白っぽく見える。花も姿も山吹草に遠く及ばない。折ると黄色い汁が出る。昔は仲間の「タケニ草」と同じように黄色い汁を塗って水虫の薬にした。
ヤマブキ。山吹、花に関心のない人は兎も角、たいていの人は知っていると思う。万葉の昔から愛された花だ。恋の歌に詠まれたという。大判小判の輝きは山吹色。黄色がまぶしい程だ。
「七重八重、花は咲けども山吹の、実の一つだに、無きぞ悲しき」
太田道灌ゆかりの歌。
戦前生まれの人は学校で教わったので熟知だと思うが、若い人はどうだろうか。そこで知ったかぶりを。
道灌は1400年中頃、室町中期の人。江戸城の基を築いた人。和漢の学問、和歌に長じたという。
道灌が狩の途中、雨に遭い、蓑を借りようと、とある農家に立ち寄った。若い娘が山吹の花を一枝捧げ持ってきた。道灌はその時「実の一つだに、無きぞ悲しき」この歌にこと寄せて娘が云わんとする歌意はおろか、歌も知らなかった。道灌は百姓の娘に劣る己を恥じ学問に励んだという。
山吹の実を、蓑にかけたミノは茅で編んだ雨具、昔のレインコート。
「七重八重」は、沢山花をつけると云う意味かも知れないが、八重咲きの山吹もある。八重咲きは“実”をつけない。
山吹は紫式部にも愛された。源氏物語の「胡蝶」の巻に、行く春を惜しんで、紫の上の住む六条院の池に船を浮かべ、船楽の遊びの様子が豪華に描かれる。鳥と蝶々の装束を着た子供を乗せて、胡蝶の楽を舞わせ、銀の瓶に桜、金の瓶に山吹を飾り池に漕ぎ出す。
この様子と「紫の上」と「秋好中宮」の歌を巧みに採り入れた能がある。「胡蝶」だ。

能「胡蝶」は蝶々が主人公。蝶々は百花の主。だが梅には縁がない。梅は厳冬から、早春に咲く。蝶々はまだ夢の中。
吉野の僧が上京、一条大宮の由緒ありげな故宮に今を盛りと咲く梅を見ていると、美しい女が現れる。女は故宮の謂われを教え、実は私は胡蝶の精だと名乗り、梅の花に縁のない身を嘆き、巡ってくる春毎に悲しみの涙を流すのだと訴える。
つづく「クセ」で「源氏物語、胡蝶の巻」の様子が謡われ、豪華絢爛な宮廷の世界に引き込まれる。
後場では僧が読む法華経に引かれて胡蝶の精が現れ、梅の花に戯れ遊び、法華経の功力によって梅の花に会えたのだと“嬉しさ”の舞を喜々と舞う。
能では珍しい清らかな童話風の作品。「船弁慶」「安宅」や鬼の能「紅葉狩」などの活劇の能を作った観世信光の作だと云うからビックリだ。人間皆ロマンチストなんだナ!と。
金剛流の宗家の蔵に子供が使ったと見られる蝶々の羽の作り物があるそうだ。子供にこの作り物を着せて「胡蝶」を舞わせ「胡蝶の巻」を再現しようと試みたのだろうという。普段は厳めしい大人が、可愛い夢を見る、これもビックリ。

comment 0
05.09
Sat
IMG_0891.jpg

IMG_0892.jpg
2015年4月17日 調布市神代植物公園で写す

初めてこの花の名を知ったのは二十歳すぎの頃だったと思う。花好きの山男の先輩に誘われて武甲山に登った時だった。「オイ花を見に行こう。ちょっとした山だぞ」山登りなど全く関心がなかったのか行き先など何も聞かなかった。兄のお下がりの古いスーツに古革靴、レインコートという出で立ちだった。
先輩は足下から頭のてっぺんまで見上げ呆れ顔に「マいいだろう」といった。
登山口にオドリコソウが群生していた。すーと伸びた茎がみずみずしくきれいだった。
「踊り子草だ。花を見てみろ。花弁の上の方が笠だ。笠を被った踊り子になぞらえたンだ」

武甲山はチチブイワザクラなど固有種もある山草の宝庫だが不幸にも石灰岩の山。
永年セメントの材料に掘られ1336メートルの山が消えようとしている。

郷土芸能には笠を使った踊りが多い。越中オハラ節、花笠音頭、佐渡おけさ、などなど。
佐渡おけさは盆踊りらしい。十数年前、佐渡で盆踊りの行列に出会った。道路いっぱいに静に踊っていた。歌詞は聴き取れなかったがよく聞く歌詞とは違っていた。
櫓を組んでの花やかな盆踊りに馴れていたので珍しかった。車だったので引き返そうかと迷った。踊りの列は踊りを中断、通してくれた。佐渡の人達は優しい。通りすぎて車を降り見物した。佐渡おけさは明るく闊達な唄だと思っていた。静に哀調を帯びていた。盆踊りは本来、死者を弔う行事。しみじみとよかった。丁度夕暮れ時、感慨一入だった。

能に登場する踊り子と云えば先ず「百万」。百万は実在したクセ舞の名手。「地獄のクセ舞」を得意としていた。昔の人は仏教を深く信仰していた。今のイスラム国よりも純粋に信心していたのだ。百万のクセ舞に、悪いことはしてはいけないと大いに感得したに違いない。
クセ舞は平安時代の、静御前の、あの白拍子の後を受け、南北朝時代から室町時代に流行った芸能。
観阿弥が能に取り入れ能の中心にした。能が永く受けつがれる芸能になったのも観阿弥の手柄ではないだろうか。昔は色々の芸能があったが、歌詞は残っていても音符がない。今のクセ舞の節が当時のままかどうかは知らないが少なくとも似ているのではないかと思う。同じことが同じように能に取り入れられた「小歌」にも云えるのでは。観阿弥は偉い。文化勲章を追贈したくらいだ。なりたくはないが総理大臣だったら。

能「百万」は行方知らずの我が子を捜す母親の話だが、子探しは作能上の方便、眼目はクセ舞の名手、百万の舞だ。
嵯峨の清涼寺の念仏法要に集まった群衆の前で俄狂女となった百万が我が子を捜すために色々な舞を見せる。
まず念仏の音頭取りが下手だと難癖をつけ、代わって音頭を取り山車を引く「車の段」、狂いの芸「笹の段」、故郷の奈良から子を捜して都に上る様子をクセ舞に作った「クセ」。
初めから終わりまで休むことなく舞い続ける。
舞の名手、百万らしく、舞づくめの曲だ。

能「百万」の詳しい解説は「能曲目の解説」をご覧下さい。

comment 0
05.02
Sat
IMG_0878.jpg
サガバノスミレサイシン 2015年4月12日金時山で写す

IMG_0922.jpg
タチツボスミレ 2015年4月24日箱根仙石原で写す

IMG_0938.jpg
スミレ 2015年4月27日武蔵野市境南町で写す

IMG_0879.jpg
富士山 2015年4月12日金時山山頂で写す

スミレ、ロマンを誘う花らしい。宝塚の美女達が歌う「スミレの花の咲く頃、はじめて君を知りぬ」宝塚歌劇団フアンならずとも耳の片隅にあるのでは?
万葉の時代も恋心を誘ったようだ。
「春の野にスミレ摘みにと来し我そ、野をなつかしみ、一夜寝にける」よく知られた万葉の歌だ。
万葉の時代にも“野の花好き”がいたのだと嬉しくなったが、どうもこの歌、相聞歌らしい。つまり恋の歌だという。ガッカリしたりうれしくなったり。
スミレの種類は50種以上の多さ。当たり前だがそれぞれ、何々スミレと名が付く。姿や葉の色は違っても可愛い花の形はほぼ同じ。ややこしい名前は気にせず「スミレ」で可愛がりたい。

ナガバノスミレサイシン。スミレサイシンというのが日本海側にあるという。太平洋側にはないので、お目に掛かった事がない。大型のスミレで茎や根が旨いらしい。特に根はトロロで珍味と云う。ナガバノスミレサイシンはスミレサイシンに似ているから付いた名なのだろう。根はさほど大きくなく、とてもトロロにはならないが若い茎は美味しい。町の人家近くには無いが、ちょっとした山に行けばよく見かける。サイシンは細辛、根を漢方薬に。

タチツボスミレ。人家近くにもある一番身近なスミレかも知れない。多くのスミレは根際から葉が出るがタチツボスミレは茎がのびる。身近な割には変わった姿だ。茎があるのはタチツボスミレだけではないが。

スミレ。他のスミレは何々スミレと頭に付くがこれはただ「スミレ」。人家近くにも多い。
濃い紫が美しい。昔の人はスミレで着物を染めたそうだが、このスミレだろうか。昔からスミレの色は人々の憧れだったのだろう。
このスミレはヘソ曲がりだ。あまりの可愛さに鉢に植えても一,二年、いつの間にか居なくなる。残念と諦めていると鉢の外で花を咲かせている。思わず、鉢は窮屈だった?と話しかけたりする。草原や土手などに多いが、日当たりの良い石垣や道路のアスファルトの隙間に咲いているのを見かける。ヘンな場所が好きなカワイコちゃんなのだ。

富士山。もちろん富士山は野草ではない。だが、あまりの感動だったので誰彼となく話したいのだ。
仲間と箱根で謡曲の会をした。二十歳代からの仲間だ。グズグズ朝食を済ませて金時山に登った。前夜の雨で登山道はぐちゃぐちゃ。かなりの急坂に難渋したが、山頂からの絶景に息を飲んだ。掛かっていた雲が一気に晴れたのだ。少々ガスっぽかったが富士山の勇姿に圧倒された。
金時山は平安時代の武将、坂田金時にあやかってついた名。金時は源頼光の四天王の一人。幼名金太郎。ここで生まれ獣と遊び、熊などと相撲大会をしたと童謡に歌われている。
山頂の茶屋の「金時娘」が有名だ。茶屋の中に皇太子など有名人と並んで撮った写真が飾ってあった。写真は茶色かかって変色が進んでいた。時の流れに何かが胸に迫った。
当の金時娘はキノコ汁を作っていた。背中が見えた。背中は丸かった。

昔は早春の野や川岸で若菜を摘んだという。吉野川を菜摘川とも呼んだ。若菜は食べるために、神に供えるために。その中にスミレもあったのだろう。スミレも貴重な食材だったというから。
能には若菜摘みの情景がしばしば登場する。「求塚」「二人静」「國栖」など。求塚、二人静は以前紹介した。

能「國栖(くず)」は壬申の乱を脚色したもの。大友皇子に追われ、吉野の山奥に逃げ込んだ大海人皇子(天武天皇)を蔵王権現の化身らしい老人と姥夫婦が救うという話。
 シテ、老人夫婦の登場がいい。
「姥や給え。祖父(おおじ)が伏屋のうえにあたって、客星の御立ちあったは拝まい給うたか」古風なセリフ回しと雰囲気で、いきなり上古の時代に引きずり込まれる。
吉野の山中を彷徨う大海人皇子一行が老人の住処にたどり着く。老人夫婦は二、三日食事を召し上がっていない皇子に、老人は吉野川で釣った鮎を紅葉葉で焼いて、姥は吉野川の川岸で摘んだ、若菜、根芹を差し上げる。セリの中にスミレも混ざっていたかもしれない。
皇子は感謝の気持ちを込めて鮎の半身を老人に賜る。老人は昔、神功皇后が新羅(五世紀~十世紀頃、朝鮮半島にあった國)に遠征した時、鮎を放って戦勝を占った例に倣って吉野川に半身の鮎を放つ。吉野川の激流を飛び跳ねて泳ぐ鮎の様子を、老人は髪を振り乱して舞う。見どこらだ。
追手の武士に小屋を発見され、老人は皇子を船の中に隠す。追手と老人の息詰まる駆け引きは最大の見どころ聞きどころ。劇的緊迫感に圧倒される能だ。
老人夫婦は、天女が現れ舞を舞い皇子を慰めるだろうと静に退場する。やがて天女が現れ後に「五節の舞」と呼ばれる舞を舞う。
後場は修験道の守護神、荒神の蔵王権現が國を守る神意を見せて暴れ回る。

「國栖奏」を見に行きませんか。吉野町南國栖の浄見原神社で二月十三日に奏される。土地の人の説明で、天武天皇の即位の時奏されたものだという。古式豊に奏される。
  能「國栖(くず)」の詳しい解説は「能曲目の解説」をご覧ください。

comment 0
back-to-top