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02.25
Sat
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戸定邸 2017年2月2日写す。以下同じ 

千葉県の松戸に謡曲と仕舞の、同好がいて通っている。ひょんな切っ掛けで戸定邸を知った。松戸は上野から常磐線で15分少々、首都のベットタウンと云ってもいい距離。
失礼な言い様だが、こんな処にこんな素敵な庭園、建物があるとは思いもよらなかった。
戸定邸は最後の徳川将軍、徳川慶喜の弟、最後の水戸藩主、徳川昭武の住まいに建てられたそうだ。昭武は慶喜の名代でパリ博覧会に派遣された程の文化人、戸定邸の庭園も洋風を取り入れた庭園だという。昭武の長男の代に松戸市に寄贈されたそうだ。

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紅梅 バラ科

戸定邸を造ったのは水戸藩主。水戸と云えば偕楽園。偕楽園は梅の名所。戸定邸に梅が植えられているのは当たり前だろう。真っ盛りだった。
水戸偕楽園には好文亭と名付けられた休憩所兼土産物屋がある。さすが偕楽園、と感じ入った記憶がある。というのも能「東北」を思い出したからだ。「東北」は王朝の恋多き歌人として知られる和泉式部を、恋の色を一切排し気品、優雅一辺倒に描いた能。式部が愛した梅を「梅の名は好文木又は鶯宿梅などとこそ申すべけれ」と謡う。好文木は中国の故事による梅の異称でもあるそうだ。

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ロウバイ ロウバイ科

極寒の花の少ない時期に戸定邸を訪れたのはこの花が目当てだった。ある筈だと見当をつけて行ってみたが見当たらなかった。ガッカリして帰る途中、門のすぐ下の民家の垣根に咲いていた。人の幸せは何でもない所にもあるもだと、少々大げさだが。
ロウソクの蠟で作った梅の花のようだとか旧暦の12月の異称、臘月に咲くからとかが名の由来らしい。
花は虫や鳥に花粉を運んでもらうためにきれいな花を咲かせるのだと思っていたが、虫のいない時期に咲くとはヘソ曲がりの花だと思ったり。花にヘソがあるかどうか知らないが。

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与謝野晶子の歌碑。「くれないの、形の外の目にみえぬ、愛欲の火の昇るひなげし」 

ヒナゲシは虞美人草とも。虞美人は楚王、項羽の寵姫。清らかに可憐な花だと思うが、さすが与謝野晶子、“愛欲の火”と歌うとは。
松戸の知人がヒナゲシを贈った返礼にヒナゲシの歌数首を贈ったそうだ。
与謝野晶子は源氏物語の現代語訳を書いた。晶子の歌は源氏物語に登場する人達を彷彿とさせる。
源氏物語は千年も前、世界の何処にもなかった大恋愛長編小説。能の格好の題材であり数々の名曲が作られた。だが作者、紫式部を主人公にした能は一曲だけしか知らない「源氏供養」だ。

架空の物語の類は人の心を迷わす狂言綺語であり、作者は勿論、読者までも妄語戒を犯したとして地獄に落ちるとされた。
だが源氏物語の魅力には勝てなかった。地獄覚悟で読んだ。
平安末期から室町に懸けて妄語戒を犯して地獄に落ちたであろう源氏物語の作者と読者を供養する「源氏供養」が流行った。
源氏供養のための表白文の傑作が安居院法印聖覚の「源氏物語表白」。桐壺の巻から夢の浮橋まで巻名を織り込んだ傑作。

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能「源氏供養」はこの表白文をクセに作り紫式部に舞わせ、供養の場を再現して見せ「紫式部が後の世をたすけ給えと諸共に、鐘打ち鳴らして回向も既に終わりぬ」と留める。
箒木の巻から末摘む花の巻までは表白文をほぼそのまま、紅葉の賀から最後の夢の浮橋までを表白文を巧みに取り入れ作者の創意で作られた美文。聞き応え充分。
クセは源氏54帖の内26帖が謡われる。三番目物にはつきものの序ノ舞や中ノ舞などの舞はない。クセの舞は思い入れなど、情感表現はしないという口伝がある。いずれも表白としての趣を損なわないためだろうか。ワキは安居院法印と洒落ている。
能「源氏供養」の詳しい解説はこちら、「東北」の解説はこちら

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02.18
Sat
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五大堂遠景 松林の奥が日本美術院跡 2017年1月14日写す。以下同じ。

五浦は福島県境に近い茨城の北部、大津港の近くの景勝の地。
上野の芸大の前身、東京美術学校を作った一人、岡倉天心が住んだ。五大堂は天心の瞑想の隠所だったという。美術学校での色々な問題で受けた心の負担を癒すためだったのだろうか。天心は日本美術院を五浦に移し、天心の門弟、横山大観、菱田春草、下村観山なども移り住み日本画の制作活動をした。現在、日本美術院跡は茨城大学が管理していて庭園風に整備され、美術館がある。
五大堂は五年前の東日本大震災の大津波で台座を残して波にさらわれた。茨城大学の学生や福島の潜水業者の協力で海の中を探し回り、壊れた五大堂の残骸や屋根のてっぺんの宝珠など拾い上げたそうだ。
大津波の後、五大堂は元の五大堂そっくりに復元された。屋根の宝珠は前の物だろうか。
兎に角絶景の地。泊まるところは大きなホテルや民宿も数あるが、民宿「五浦」がおすすめ。外観は綺麗とは云い難いが、崖っぷちの景色抜群、天然温泉かけ流し、料理がいい。

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ツバキ ツバキ科

五大堂と周辺の絶景が見渡せる公園に植えられていた。
「山寺の、石のきざはし、下りくれば、椿こぼれぬ右に左に」今年初めて見た椿だった。感激一入。昔教わった落合直文の句を思い出した。
椿にはきれいな思い出がある。屋久島の名前は忘れたが、集落の県道沿いに、椿の大木があり周りは広場になっていて傍らに井戸があった。屋久島特産、御影石の割石で囲った苔むした井戸だった。子供が数人、桶に椿の花を水で揉んでアブクを作って大はしゃぎしていた。今は彼らも彼女らも大人になっている。井戸の思い出は胸の中に健在だろうか。
椿の歌は万葉集に数首あるそうだが能には登場の記憶がない。だが井戸は登場する、「井筒」だ。井筒は上演頻度の高い名曲だ。この曲の名を耳にする度に屋久島での光景を思い出す。

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“業平の面影”業平の装束を付けた女は井戸に己の姿を映して業平を偲ぶ。

伊勢物語は主に在原業平の物語だという。百二十五からなる物語は歌の枕詞のように短いものが多く補注書によって理解されてきたようだ。
「井筒」は伊勢物語、23段を脚色した能。
伊勢物語23段の物語「昔、男の子と女の子が何時も井戸の傍らで遊んでいた。二人は恥ずかしがる年頃になり一緒に遊ばなくなった。男が女に歌を送る“筒井つの、井筒にかけしまろがたけ、過ぎにけらしな妹見ざるまに”女の返歌“くらべこし、ふりわけ髪も肩すぎぬ、君ならずして誰かあぐべき”二人は結ばれた。その後、男は高安の里に女が出来て通った。女は嫉妬する様子もなく高安に行く夫を気持ちよく見送った。男はこれを不審に思い妻に想う男が出来たのではと疑い、ある日高安へ行くふりをして植え込みに隠れ見張った。女はうつろな目で遠くを眺め“風吹けば沖つ白浪たつた山、夜半にや君がひとり越ゆらむ”と歌を詠んだ。男は女のひたむきに男を想う純情に打たれ高安には通わなくなった」
龍田山は高安に抜ける山。苦しい坂、そのうえ追いはぎの出る怖い山と恐れられていたそうだ。

能「井筒」は前場のクセで、井戸の水鏡を見て遊ぶ幼児の頃の二人、成長して結ばれるまでを「筒井筒」の歌を核に情緒豊かに歌い上げる。型はなく謡だけの居クセだが詞章も節も優れ、想像を掻き立てるに十分。むしろ型は不要とさえ思わせる。
「中入」後、女の情念が燃える。シテの出から終曲まで魅力的な謡、型の連続だが特に井筒の際に生えたススキを払いのけ業平の面影を見る型(上掲の写真)は人の胸を打つ数ある型の中でもトップクラスだ。
蛇足だが伊勢物語の、高安の女の話は、物語が不自然であることや、文章の長いことなどから後に付け加えたものではないかという。能「井筒」ではクリにこの時の女の歌“風吹けば沖つ白波”が謡われるが女の純情に高安の女は影さえも浮かばない。
能「井筒」の詳しい解説はこちら


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02.11
Sat
今年は裏日本、北海道、近畿、九州まで大雪がつづく。雪を心配しながら福島の勿来の関、茨城県の北端、五浦を訪ねた。殊の外寒かった。寒さのせいだけはなく此処は何時来ても訪れる人も少なく静かで昔を彷彿とさせる。

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勿来の関(なこそのせき)跡 2017年1月13日写す以下同じ。騎馬武者の銅像は源義家。肝心のカメラを忘れ同行のタブレットで撮った。逆光でうまく撮れなかった。

福島県だが茨城県の県境に近い。常陸国と陸奥国の国境にあったという。
「吹く風を勿来の関と思えども道も狭に散る山桜かな」平安後期の武将、八幡太郎源義家が、勿来の関で詠んだ歌。千載集にも採られた有名な歌だそうだ。奥州の豪族、阿部氏との戦い、前九年の役、後三年の役で義家は京都から700キロ位?もあろうか、遥々この関に来た。勿来は、「な、そ」の否定の古い語法だそうだ。
当時、奥州は異国の地のような僻地。勿来、“こんな所まで来なさんな”と云うのだろうか。

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紅梅
勿来の関は知られた古関、観光の目玉なのだろう整備が行き届いていた。山の上で自然たっぷり。春の終わりに訪れた時は野の花、山の花が花盛りだった。今回は冬の最中、花は全くなかった。当たり前だが。この紅梅に出会ってビックリ。我が家の紅梅はまだ蕾が固かったのに。

梅は中国が原産。大昔に渡来、日本人に愛されてきた。彼の和泉式部も愛した花。後に東北院と呼ばれた和泉式部の住家の庭に「軒端の梅」が植えてあった。帝が軒端の梅を所望した。
式部は一首の歌を詠む「勅なれば、いともかしこき鶯の、宿はと問わばいかが答えん」
梅と云えば鶯。梅は鶯の家なのだ。この話をもとにした能がある。「東北」。

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孫次郎(まごじろう)。能「東北」など若い女性物に使う。気品と艶を兼ね備えた面。
昔、金剛孫次郎が早世した美しい妻の面影を写したと伝えられる面。 

和泉式部は恋多き女として知られている。意外にもこの能「東北」の作者世阿弥は、恋の色も匂も全くしない清らかな能に作った。
クセから「序ノ舞」を挟んでキリに、東北院の美しい佇まいや梅の姿を、美しい詞章、美しい舞で謳いあげる。作品の品格からか、雅な会などで謡われる。京都では、お茶の「初釜」の席で謡われるそうだ。
能「東北」の詳しい解説はこちら
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02.04
Sat
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寂光院 2016年12月24日写す。以下同じ

静かな佇まいだった。観光客も少なく昔を偲ばせる辺りの風景だった。ここは平家物語「灌頂巻」、能「大原御幸」の舞台。平家滅亡後、建礼門院徳子は大原の荒れ寺、寂光院に入り我が子安徳天皇、一族の菩提を弔った。
後白河法皇が寂光院に行幸し、建礼門院に平家滅亡の折の話を聞く。
「一宇の御堂あり、甍破れては霧、不断の香を焚き、とぼそ落ちては月もまた常住の燈火をかかぐ」法皇が見た寺の荒れぶりを能「大原御幸」で灌頂巻の記述そのままを謡う。
能「大原御幸」は灌頂巻の名文を駆使した型らしきもののない「語り」だけと云っても過言ではない能。まさに日本人独特の感性そのままの能。

寂光院には強烈な思い出がある。二十年近くも前、寂光院を訪ねる前に比叡山に登った。根本中堂で、三塔の一つ横川を拝観したという人に横川を勧められた。そう遠くないという。それではと下ったらとんでもなく遠かった。その筈ここは回峰のルートだった。既に三時を過ぎていた。バスはなく一台止まっていたタクシーは予約済み。タクシーの運転手は山一つ向こうが大原だという。勇んで山に向かったがとんでもなく山三つ程越えた向こうだった。大原のバス停に辿り着いたのは六時近かった。この日訪ねる計画だった寂光院は諦めざるをえなかった。長年の想いだったので心残りは何時までも消えなかった。

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朧の清水

能、大原御幸で、門院は草深い辺地を訪れた法皇に感謝し「芹生の里の細道、朧の清水、月ならで御影や今も残るらん」と謡う。門院が都から寂光院に向かう途中、日が暮れ門院の姿が月の光で清水に映ったというその泉だという。

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建礼門院御陵 

玉垣や鉄の鎖などがそう古くはなかった。近年整備したのだろうか。
山の中腹にあり山間から西の方が遠望できた。西海の方角。門院の霊は西海に沈んだ我が子安徳天皇、一門の人々を今も偲んでいるのだろうか。

池
汀の池 

この池を見て法皇が歌を詠む。「池水に汀の桜散り敷きて、波の花こそ盛りなりけれ」
門院はこの美しい池を眺めて心を癒したのかもしれない。人間どんな逆境にあっても、慰めるものは必ずあるものだと法皇は思ったに違いない。

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建礼門院草庵跡

灌頂巻に「寂光院のかたわらに、方丈なる御庵室をむすんで一間をば御寝所のしつらえ一間をば仏所に定め」とある。背後も前も急斜面の山が迫り木々が日の光を遮り僅かの木漏れ日でほの暗かった。能では「軒には蔦朝顔這いかかり、れいじょう深く閉せり」と庵の荒れようを謡う。れいじょうはアカザという雑草。

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門院の侍女、阿波内侍の墓

寂光院の真向かいの山の斜面にある。杉の大木が生い茂り寂光院からは見えないが当時は杉もなく見渡せたのだろう。
法皇は寂光院の庭で上の山に花摘みに出かけた門院を待つ。やがて上の山を下りて来る人影が見える。この内侍の墓の斜面だったかもしれない。
「只今こそあの岨づたいを女院の御帰りにて候」と内侍、「何れが女院、大納言の局は何れぞ」と法皇。「花筐臂に懸けさせ給うは女院にて渡らせ給う。爪木に蕨おり添えたるは大納言の局なり」灌頂巻では女院は花筐に岩ツツジを折り添えていた。

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サザンカ ツバキ科

苔の上に花弁が4,5枚散り落ちていた。この時期、どこでも見られ、珍しくはない筈だが樹下の寂寞とした中、苔の上の花びらに見入った。

法皇は寂光院を去ろうとする。法皇は門院に先の西海での戦いに地獄を体験したと聞くがと問う。地獄は死者の世界だ。門院は生きながら地獄を見た。戦いはまさに地獄であっただろう。日本を二つに分けた大戦。瞬時に死ぬ核兵器や銃はなかった。武器は刀や槍、能「頼政」の描写「血は涿鹿の川」となって流れただろう。船は小さな木造船。西海での戦いは海だった。昼夜、舟に漂った。「海に臨めども潮ならば飲水せず餓鬼道のごとくなり」
磯を打ち砕く荒波は船をも砕くかと恐怖に泣き叫ぶ声々はさながら「叫喚地獄」であった。
陸の戦いはさながら「修羅道」の戦いだった。馬の蹄の音、いななきは凄まじく我が身も畜生に生まれ変わったかと思われた。
数々の地獄を巡ったすえ我が子安徳天皇は二位尼に手を引かれ入水した。辞世「今ぞ知る見裳濯川の流れには波の底にも都ありかり」7歳であった。
法皇は寂光院を去る。門院は「しばしが程は見送らせ給いて、御庵室に入り給う」
ここで能「大原御幸」は終わる。

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かぼちゃ

寂光院を訪れる人の休憩用に作られたのだろう庭のきれいな建物でかぼちゃが振る舞われた。冬至を過ぎたばかりだった。冬至に南瓜を食べるとは知っていたが意外だったので嬉しかった。こもごもの味がした。頂きながら先に見た真っ赤な一輪だけの山茶花が目の奥にちらつき、庵室の前に佇み法皇を見送る門院の姿が重なった。
   能「大原御幸」の詳しい解説はこちら

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