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01.27
Sat
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カランコエ ベンケイソウ科

ネコの額と云うよりネズミの額に近い我が家の庭。
色々な野山の草花を無秩序に乱雑に植えている。
空いている所に勝手に植えるので乱雑になる。
珍しくもない野草の花が大半だが結構珍しい花もある。
咲きそうになったら鉢に移し部屋に持ち込む。
庭は通りに面していて垣根がない。花が終わった鉢植えや、枯れかかった花など
置いて行く人がいる。
洋種の花や、園芸種の花は好きではないが、可哀そうだから植えている。
カランコエもその一つ。愛嬌のある名前、出身地が気に入っている。
それに花のない冬に咲くのが何よりいい。
マダガスカルの出身だそうだ。この島はアフリカのインド洋側にある島で
奇怪な動物がすんでいることで知られている。
この島から遥々海を越えて来た。“草木心なし”と能の詞章にあるが
ほほ笑むように咲く花を見ていると本当に望郷の心はないのだろうかと疑う。
嵐の岬の異名で知られるアフリカ、ケープタウンの南端、喜望峰も近い。

昔、嵐の岬喜望峰を回り遥々のポルトガルに嫁した女性がいる。
国際結婚第一号だろうか。
戦国時代、種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えた。
日本の歴史を変える大事件だった。
種子島の人達は鉄砲の歴史的意味には興味が薄い。
若狭という女性イコール鉄砲伝来なのだ。
若狭は今の世まで語り継がれ歌に唄われている。
若狭は刀鍛冶の娘だった。鉄砲の製法の技術と引き換えに
ポルトガル人に嫁いだ。
当時は外国人と云えば中国人。顔は似ていても異風だった。
ましてヨーロッパの人は見たことも聞いたこともない、
顔も形も異風この上もなかったと思う。
島民は若狭を心の底から哀れんだのだろう、若狭姫と呼ぶ。
その後、若狭は深い望郷の想いからだろう心の病に侵され
帰国したとも云われるが、頃はヨーロッパの夜明け大航海時代だった。
帰国は不可能だったと思う。彼の地で没したのではないだろうか。
若狭には到底及ばないが平安後期、俊寛僧都は望郷の果て配流の地で生涯を閉じた。
俊寛の絶望に悶える姿を能「俊寛」では生々しく描く。

俊寛僧都は平清盛に反感を持つ藤原成経、平康頼など時には後白河法皇を迎え
鹿谷の山荘で平清盛討伐を謀ったが露見、鬼界ケ島に流される。
清盛の娘で高倉天皇中宮、徳子の安産祈願のため大赦が行われ鬼界ケ島に
赦免使が赴く。
康頼が読み上げる赦免状に俊寛の名がなかった。
「せめて思いの餘にや、前に詠みたる巻物を叉引き開き同じ跡を繰り返し
繰り返し見れども見れども唯、成経康頼と書きたるその名ばかりなり。
もしや禮紙(書状の包み紙)にやあるらんと巻き返して見れども」
狼狽する俊寛を能の型の制約のなかで訴えるが与える感動は大きい。

俊寛
遠ざかる赦免船を茫然と見送る俊寛

俊寛一人を残し船は成経、康頼を乗せ遠ざかる。
「幼子の乳母や母などを慕うように足摺りをして是、乗せて行け具してゆけ」
と平家物語にはいう。
右手をあげ水平線の彼方に消えて行く船を見つめ放心の態で佇み、
能「俊寛」は留る。観客に俊寛の心中を任せて。

平家物語に俊寛は気性が激しく驕り高ぶった人だったとある。
奢り高ぶった人の狼狽、幼子のように人間本来に返る絶望の姿を描いた作品。

鬼界ケ島は現在の硫黄島。活火山の島。鹿児島からフェリーが出ている。
廃業したリゾートホテルから逃げ出したクジャクが飛ぶという。
海際に露天の岩風呂もあり最も行ってみたい島。

   能「俊寛」の詳しい解説はこちら

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01.20
Sat
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港の見える丘公園 2018年12月26日写す。以下同じ

暮れは気ぜわしいはずなのに、風の吹き回しか、気まぐれか
この公園に来ていた。
かなり古いが上京した郷里の親戚夫婦を案内したことがあった。
東京タワーを勧めたが「港の見える丘」に行きたいと云う。
以来、田舎からの来客を数回案内した。一人でも行った。
当時は崖の縁にバラ線が張ってあるだけ、周りはヤブだったと思う。
見下ろす横浜港の絶景が感動だった。
二次大戦後に流行歌「港が見える丘」が流行った。
田舎のお客さんは東京タワーより「港が見える丘」が憧れだったのだろう。
歌を慕ってか絶景を慕ってか色々な人が訪れるのだろう踏み固められ、
広場になっていた。
広場の先は崖で危険だからだろう一時、立ち入り禁止の縄が張ってあった。
後に立派な公園に変身した。名も「港の見える丘公園」歌の碑が建っている。

♪あなたと二人で来た丘は、港が見える丘、色褪せた桜唯一つさびしく咲いていた♪
船の汽笛、むせび鳴けばチラリホラリト花びら、あなたとわたしに降り注ぐ、
春の午後でした♪

寒風に縮じこまりながら作ってもらった弁当を食べた。
うつむいて食べていたら田舎のお客さんが小声で歌っていた「港が見える丘」の
幻聴が聞こえ、あの時の二人の姿が浮かんだ。
今は故人となった二人は、二人の思い出に想いを馳せ歌ったのだろうと思いを
馳せたら、むせてしまった。船の汽笛は全く聞こえなかった。

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サザンカ(山茶花) ツバキ科

外人墓地の垣根に咲いていた。
寒い時期、何処にでも咲いている。珍しくもないから気にもかけない。
日本の固有種、日本だけにある花だそうだ。
と聞けば見直してしまう。俄か愛国者になるのだから不思議。
ツバキにそっくり、見分けが付かない。親族だから当たり前だが。
サザンカは花びらが一枚一枚チラリホラリと散る。
ツバキは花びらがくっ付いていて丸ごとぽとりと落ちる。

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外人墓地

公園の近くにある。深い谷の斜面に十字架の墓石が並んでいる。
江戸末期、来航したアメリカの軍艦の提督、ペリーの要請で作られたそうだ。
事故死した青年を埋葬するためで海の見える場所が条件だったという。
青年は24歳、魂は今も海の彼方を背伸びして眺め、故郷を偲んでいるだろうか。

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ヤブツバキ (藪椿)ツバキ科

公園を降りる途中の薄暗い大木の生い茂るヤブに咲いていた。
野山の木や草の花が極端に少ない冬、豪華な花を咲かせる椿は有難い。
椿の木は大木になる。たくさんの花をつけ、木の下に散り敷く落花も豪勢だ。
「山寺の、石のきざはし下りくれば、椿こぼれぬ、右に左に」
古い多分中学校の教科書にあったのだと思う。
この頃の教科書には昭和初期の詩や歌があった。
当時は子供の興味を引くものが少なかった所為か教科書が興味の対象だったのだろう。

かなり古いが「椿三十郎」と云う映画があった。武家屋敷の庭に小さな流れがあり
隣家の屋敷から切り落とされた椿が流れてくる異様なシーンがあった。
椿の落花はぽとりと首が落ちるようで武家屋敷では忌み嫌われると聞いていた。
凄惨な場面の展開を暗示しているようで気味悪かった。
この映画は派手な殺し合いが売り物の映画だったように思う。
命の尊厳という言葉がある。殺し合いの物語が娯楽の種とはおかしな話だが
最も好まれる題材だから仕方がない。
最近は一瞬のうちに消される命のゲームが流行っているようだ。
仮令ゲームでも悪人であれ、怪獣であれ命は命、若い世代は如何思うのだろう。

能を見ていると人の生死観が昔と今では大きく変わっているように思う。
能「自然居士」では人買いに、
「さように承り候はば栲訴を致そう」
「栲訴とは」
「命を取ろう」と脅され
「もとより捨身の行、ちっとも苦しからず、命を召され候らえ」という。
人買いとの駆け引きだが、根底に深い仏教への信仰心があった。
人の生死観が現代人と大きく隔たっていることを示していると思う。

自然居士は呼び名で和泉の国、自然田村の村の出身で居士の称号を
許され自然居士と呼ばれたという。
居士とは長年修行を積み半俗半僧、在家の修行者で民間の布教に努め
功績のあった者に許される称号だったという。
現在は戒名の末尾に名を留める。

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少女の寄進の小袖を首に、人買いを追う居士

居士の説法の場に少女が現れ父母の追善のためにと小袖を寄進する。
小袖は少女が我が身を人買いに売って得たものだった。
説法の場に人買いが乱入し少女を連れ去る。
居士は説法を中断、人買いを追う。
人買いは大津松本の港を船出の寸前だった。
居士は衣を投げ返し少女を返せと迫り、返さなければ人買いの目的地、
奥陸奥の国まで同道すると船に座り込む。
人買いが、殺すぞと脅しても居士は動じない。
困り果てた人買いは、居士が芸達者であることを思い出し居士に舞を舞わせ
散々嬲り者にして少女を返すことにする。
居士は屈辱に耐え人買いの要求の数々の舞を舞い少女を取り返す。

この能は遊興物と呼ばれ舞を面白く見せることを眼目にした能。
人買いの要求に先ず「中ノ舞」次いで船の起源のクリ、サシ、クセを舞い
次に数珠を使いササラの起源の「簓ノ段」さらに「鞨鼓」を舞う。
息も吐かせず繰り出される舞が圧巻。
少女救出に焦る心と屈辱に耐える心で舞うという心得があるという。

遊興を見せる能だが冒頭の説教の場、少女救出の場の緊張感、
居士の宗教家としての使命感、真摯な人柄があまさず残さず描かれ
終始隙のない、緩みのない能。

能「自然居士」の詳しい解説はこちら
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01.13
Sat
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犬吠埼灯台 2017年12月21日写す。以下同じ
真白な灯台も寒々と冬の景色だった。赤い筈のポストが何故か白かった。

年の瀬近くに犬吠埼を訪れた。
混雑を避け早朝出発、都心を通らないよう東京外環道から最近伸びた
圏央道から銚子を目指した。
古いカ-ナビには新しく伸びた圏央道は表示されず嘘ばかり教えられ
散々迷った末、到着したのは十二時を大きくまわっていた。
房総半島には海沿いの藪の中にも思い掛けない花が咲く。
今は冬、期待は薄いがヤブを掻き分け残骸でも見つかればと楽しみだった。
カ-ナビに騙されて時間を費やし、そのうえ冷たい強風に閉口!ヤブ潜りは諦め
しかたなく犬吠埼灯台だけに絞った。
灯台は絶壁に建っている。岩盤の上の貧弱な土に色々な花が咲く。
目指す花が咲いている筈だ。

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イソギク(磯菊) キク科
期待通り咲いていた。この辺は以前うろついたので見当は付いていた。
イソギクは特にきれいな花とは言い難いが、不思議な魅力をもっている。
花は針の様な花びらの集合。花は花弁が売り物なのに、これでも花びら?
と思うがフアンが結構いる。あちこちの庭先に植えられている。
我が家の猫の額にも植えている。白く縁取られた葉っぱがいい。
植栽のものと自然生えは味わいが全くちがう。
珍しくもない花だが遥々訪ねる意味がある。

静岡から千葉の海岸線にだけ咲く花だそうだ。
限定的で貴重品だと思う。

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スイセン(水仙) ヒガンバナ科

灯台の周りに咲いていた。
地下水が湧くわけではなし、保水力もない岩盤のわずかの土に
咲いているのが不思議。
気品のある花。スイセンを知らない人はいない筈。あちこちに植えてある。
八重咲や黄色の花などの園芸種もあるが、やはり白の一重が水仙の名に相応しい。
ギリシャ神話の美青年、ナルシスの化身だとそうだ。
地中海沿岸の原産でシルク道路を遥々旅して日本までたどり着いたという。
花の少ない冬の海岸線を飾る。殊に富山県の海岸の大群落がみごとだそうだ。

水仙の遥々の旅とはケタが違うが能でも遥々の旅をした女性たちがいる。
狂女物と呼ばれる女性達だ。新幹線もない時代に、てくてく歩いて
失踪した我が子や恋する人を探して旅する。
狂い物と呼ばれるこれらの曲は十指に余る。それぞれの道程は様々。
「桜川」のお母さんは日向がから常陸まで千数百キロ、最長ギネス級。
「隅田川」のお母さんは京から隅田川まで。いずれも子を探して。
「花筐」は恋する主君を求めて越前から京まで。
「百万」のお母さんが最短距離。奈良から京まで。楽チンのお母さんだが
子を思う心は同じだ。
おおかたは女性だが男の物狂いの変わり種もある「高野物狂」
遁世した主君を求めて常陸から高野山まで。
母は強し、恋は盲目と云わしめる作品群。
狂い物と呼ばれるこれらの能は訪ね求める人の情報集めのためだろうか
狂気を装い狂の舞を舞う。豊な芸を見せると云う点で共通している。

隅田川」これらの能の中で最高の傑作だろうか。よく知られた能。
訊ねる子は死んでいた。子の死を知らない母は伊勢物語、在原業平の
東下りを種に狂いの舞を見せる。舞はこれのみ、詞章、型共に優れている。
隅田川の渡し船の中で我が子の死を知った母の、悲しみと嘆きを手加減も、
容赦も遠慮もなく描いた作品はないだろう。
人間の悲しみの本質を、これほど的確にえぐり出した作品はないのではと思う。
不遇の中に若くして死んだ世阿弥の長男、観世元雅の名作。

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主君を訪ね高野山に入る高師四朗

「高野物狂」は忠臣の物語。江戸時代までの政治理念は儒教だった。
主従の信義が尊ばれた時代だった。
当時はもてはやされた能だったと思うが今では上演は少ない。
少年主君、春満は亡父の供養のため養育係だった高師四朗に置手紙残して
出奔、高野山に入る。
四朗は中国の故事、蘓武の例を引き忠勤の心を訴え春満の後を追う。
今の世にはない主従の絆が胸を打つ。
物語の中心となるクセでは深々とした霊場、高野山が描かれ、深い信仰心が
語られ無信心の胸を打つ。
忠勤の物語、併せて信仰の物語でもあろうか。


能「隅田川」の詳しい解説はこちら、「高野物狂」はこちら
 「桜川」はこちら、「花筐」はこちら、「百万」はこちら

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01.06
Sat

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高萩海岸の絶壁

茨城県の北部、福島県境の高萩は南限のきれいな花が咲くと聞いていた。
所縁の墓参りのついでに寄った。
高萩はJR常磐線、特急電車は止まらない。
そのうえ地方のバスは、車社会になった所為か本数が少ないと聞くので車で行った。
この辺りの海岸は絶壁続きの様相だった。
釣人が下りるのだろうか、断崖の切れ目の土の急斜面の踏み跡をススキや灌木の枝に
つかまりながら恐る恐る下りた。
鵜飼が盛んだった頃、この辺の絶壁で鵜飼用の鵜を捕らえたと聞いた。
鵜は絶壁が好きなのだろう。見下ろすとゾッとする断崖絶壁に住んでいる。
「なにしろ鵜には羽根があるから絶壁も恐くない、むしろ絶景だよネ、
高所恐怖症気味には羨ましいナ」
など恐怖を紛らわすマジナイ文句に呟き下りた。
斜面はハマギクの群落、小休止して眺めながら下りた。
海岸は波打ち際まで岩畳だった。

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コハマギク(小浜菊)キク科
茨城県北部の海岸が南限の菊

崖伝いに小道があった。海を見下ろしながら歩く遊歩道だろう。
景色抜群だったので歩いてみた。見晴らし台のように小さな広場?
があった。数年前に亡くなった釣り好きの兄の愛唱の唱歌、
「海は広いナおおきいいナ、月が昇るし日が沈む♪」
を海に向かって歌った。誰もいなかったので遠慮なしに。
ヒョイと頭を回らしたら藪の中にピンク色が目に入った。
誰かが捨てた空き缶か、菓子の包み紙だろうと思ったが、
生まれつきの好奇心は衰えがなかった。藪を掻き分け近づいた。
コハマギクだった。断崖絶壁の縁に咲いていた。
腹這いに匍匐前進、海兵隊の上陸作戦よろしく、下を見ないように近づいたが
高所恐怖症気味の身は小刻みに震え、上手くシャッターが押せなかった。

コハマギクは白い花だと思っていた。ピンク色は変種かなと思って
調べたら紅紫色に変わるとあった。
初めてお目に掛かった。小ぶりの浜菊と思ってあまり気にしていなかったが、
花弁の幅が大きくふっくらとした姿は形容しがたい優しさだった。
意外なめぐり合わせに、ただただ感動、感動だった。
能にも感動的、運命的なめぐり合いを描いた作がある。
「半蔀」「夕顔」「玉葛」
いずれも源氏物語、悲劇の女性、夕顔をめぐる作品。

光源氏は乳母でもある家来、惟光の母を見舞いに行く。
隣家の板塀に見慣れない大きな白い花が咲いていた。
源氏は家人の惟光に花を摘んで来るよう命じる。
家の中から童女が現れ扇を差し出しこれに花を乗せて
差し上げて下さいという。
白い花はユウガオ(夕顔)の花だった。
ユウガオはカンピョウの花、花柄に小さな毛が密生して風情を削ぐからと。
扇面に一首の歌があった。源氏も返歌する。
花は夕顔の花、歌の主は夕顔だった。
これを機縁に源氏と夕顔は契りを結ぶ。
中秋の名月、源氏は夕顔を連れて「何某の院」に行く。
夕顔の侍女右近、惟光、随身二、三人だけの供だった。
何某の院は源融の「河原の院」、荒れ果てお化けが出るとの噂だった。
夕顔は何某の院で物の怪に襲われ落命する。

夕顔には幼い娘がいた。頭中将との間の子、玉葛だった。
頭中将の正妻の迫害を避け、ユウガオの家に隠れ住んでいた。
玉葛の乳母は失踪した夕顔を必死に探すが叶わず夫の任国、筑紫に下る。
玉鬘はこの地で美しく成長する。美貌の玉鬘に言い寄る者が多く中でも
肥後の権力者、太夫の監の求婚は恐ろしく拒めなかった。
乳母はこの地で亡じた夫の遺言に従い乳母、乳母の長男太郎は玉鬘を伴い
早船を仕立て、筑紫を脱出する。
難所、響の灘の恐怖は玉鬘の脳裏から離れることはなかった。
都に辿り着き、玉葛の行く末を祈願に初瀬寺に詣でる。
たまたま源氏に仕えていた夕顔の侍女、右近も玉鬘との再会祈願に
初瀬に詣でていた。
一行は計らずも邂逅する。玉葛の心の動揺は計り知れなかった。

玉葛は源氏の娘として源氏の邸宅「六条院」迎え入れられる。
玉葛の美貌に多くの貴公子が懸想した。源氏までも言い寄った。
親らしからぬ源氏の懸想に玉葛は苦悩する。

夕顔
「来ん世も深き契り絶えすな」追懐の舞を舞う夕顔の霊

「夕顔」では何某の院の恐怖を軸に夕顔の悲惨な宿命を描く。
世阿弥の自信作と云われる名作。
「半蔀」は源氏と夕顔の恋に焦点を絞り源氏物語、雨夜の品定めに云う
夕顔の性格、子供の様に純粋な夕顔を、愛おしく情緒深く描き、
「玉鬘」は四番目、狂女物として玉鬘を描く。
筑紫の脱出行、響の灘の恐怖、初瀬の邂逅、養父源氏の懸想などが混然と
なって狂乱する玉葛を描く。

能「半蔀」の詳しい解説はこちら、「夕顔」はこちら、「玉葛」はこちら

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