FC2ブログ
09.02
Sat
高尾山は山頂に薬王院のある、都心からも近く外国人にも人気の山。
裏高尾は高尾山の裏、甲州街道の旧道沿い一帯。
色々な野草が見られることでも知られている。
八月に入って雨続きだった。テレビの予報とにらめっこ、
晴れ間があると聞いて飛び出した。
お目当てはキツネノカミソリ。
春の花を見に行った時に葉っぱを確認、見当をつけておいた。

IMG_4757.jpg

IMG_4764.jpg
キツネノカミソリ(狐の剃刀)ヒガンバナ科 
2017年8月17日裏高尾で写す。以下同じ。
 

キツネノカミソリはヒガンバナを日本調にしたような花。
ヒガンバナは中国渡来とも云う異国情緒を漂わせた花。
キツネノカミソリはヒガンバナのようにどこにでもある花ではないようだ。
艶やかなミカン色がきれい。大好きな花の一つ。猫の額の庭でも盛大に植えたい。
名は葉っぱが剃刀の形だからだという。なぜ狐かは分からない。
狐はずる賢い顔。ウサギのカミソリの方がぴったりではと思うが人の思いは様々。
それにしてもキツネは毛むくじゃら、何処を剃るのだろう?
IMG_4776.jpg
タマアジサイ(玉紫陽花) ユキノシタ科

アジサイは梅雨を代表する花。へえ?今頃満開?と思ったが、
玉アジサイは遅咲きだそうだ。
登山道沿いに花盛りだった。丸い蕾が牡丹の蕾に似て可愛い。
まるで和紙で手作りしたような面白さ。


IMG_4803.jpg
クサギ(臭木) クマツヅラ科

相模湖からの登山口に咲いていた。人家の近くでよく見かける。
花はそれほどきれいだとはいい難いが実は底光りする青色、宝石のように艶やか。
名のように臭い。悪臭といえる。
子供の頃、祖母が若芽を茹で天日に干して食べていた。
祖母にすすめられて食べた。臭みはなく今まで食べたことのない食感で、
美味しかった記憶がある。
母は「食べるものに困っている訳でもなし、何も臭いもの食べなくてもいいものを」
とこぼしていたことを思い出す。
悪臭のするものを食べる、不思議で仕方がなかった。
年を経て、山菜の本に紹介されていた。
全国的に食べられているのだと、祖母や母に教えたかったが祖母も母も、
すでにあの世の人となっていた。

IMG_4786.jpg
小仏峠(こぼとけとうげ)

昔の甲州街道の峠。
昔は草鞋掛けの人や、荷や人を乗せた馬がこの峠でホッと一息ついただろう。
荒い息使いが聞こえるような峠だった。
お地蔵さんが広場の隅に立っていて中年のおじさんが手を合わせていた。
この人も昔を偲んでいたのだろうか。
立っている足の下はJR中央線と中央高速のトンネル。
昔と今、思い合わせて感無量だった。
小仏峠から城山を越え相模湖まで感無慮を引きずって歩いた。


IMG_4762.jpg
浅川神社(浅川神社)

“♪村の鎮守の神様の、今日は目出度いおお祭り日、ドンドンヒャララドンヒャララ♪”
子供の頃、歌った唱歌。この頃トント聞かない。
今の子供はカッコ悪いのか昔の歌は歌わない。
小仏峠の登山口に浅川神社があった。小さな社だったがこじんまりと由緒ありげだった。
夏のお祭りなのだろう10人程の村人が社殿前で頭を下げ祝詞を聞いていた。
遅れて来たらしい年配の人に、
「由緒のあるお社のようですね」と声を掛けた。ちょっと困ったよう顔をしたが、
すぐにニコニコ顔、
「昔は、小仏峠にあったンですよ。小仏は登るのに大変でね、お祭りに困って、
あそこに移したんですよ。ここは三度目のご遷座です」指さす方向に中央高速が見えた。
神様も中央高速には勝てなかった、とは云わなかった。
子供や若者の姿はなく“ドンドンヒャララ”もなかったが、
おじいさんやおばあさん、おじさんやおばさんの神への思いが
満ちている広場だった。

こんな時に思うのだが、名のあるお寺に参拝するとき、拝観料を納める。
お寺は世の悩める男女老若が仏に縋る処と云うのが常識だと思うが、
お寺の運営に、お賽銭とお布施だけでは足りないからだろうか。
 拝観料を納める神社は聞いたことがない。
神道は日本人の心の奥底に沁み込んでいて支援者に事欠かないからだろうか。
結婚式や葬式で神道や仏教を意識する程度の情けない者が云々するのは憚りだが。

古来日本の宗教は神道と仏教。神道は日本の国と共に生まれた宗教という。
仏教は西暦500年代、インドから中国経由で渡来したという。
嘗て仏教大国であった中国は影も形も南無阿弥陀仏に近く、
東南アジアに伝わる小乗仏教の国、タイやミャンマーには遠く及ばないが、
大乗仏教では日本は教世界一。日本人の生き様を永い間導いて来た。

能の作品で仏教色のない作品は皆無に近い。
多分、能の作者が敬虔な仏教信者だったからだけではなく、
人々の生活が仏教基盤だったからで必然的に生まれた能の形かも知れない。
禅宗に深く帰依した能の作者がいた。金春禅竹。
禅竹の作で仏教の教理を説いた作品が重く扱われる。
その一つに「芭蕉(ばしょう)」がある。


曲見
「芭蕉」の使用面。「曲見(しゃくみ)」石川 龍右衛門 作
人の世の苦しみ悲しみを知った中年女性の相。


能「芭蕉」は感性で見る能と云っていいかもしれない。
物語は至って簡潔。
法華経を読む僧の庵の前に毎夜聴聞に訪れる女がいる。
不審する僧に女は仏縁を結びたいのでしばらく庵の内に入れてくれるように、
懇願する。
僧は男、女の願いを断るが女の更なる懇願に読経の間だけと招じ入れる。
昔は日本でも戒律が厳しかった。

仏教国タイは小乗仏教で戒律がきびしい。ガイドの人に聞いた話だが、
坊さんが、何の修行中だか忘れたが何かの修行の終わり頃に町に出るそうだ。
その時女性の着衣の袖であっても触れると修行を初めからやり直す
という戒律があるそうだ。

女は草や木も成仏するという薬草喩品を聞いて実は私は芭蕉の精であると、
ほのめかし、折しも鐘の音が聞こえ「諸行無常となりにけり」と前場を終える。

後場は自然の現象を情緒的に歌い上げ、
これらは真実の具現であるとするクセが中心となる。
クリに「それ非情草木と言っぱ、まことは無相真如の体。一塵法界の心地の上に
雨露霜雪の形を見す」と謡う。
難しい仏語で語られ何のことだか全くわからない。
“心を持たない草や木、その色や形は人の想念を超えた真実の実体であって、
一つの小さな塵の中にも宇宙を含み、水が雨露霜雪の形を見せるように草木も
その時々、様々の姿を見せるのだ”という事らしいが
字面は分かるような気もするが本当の意味は全く分からない。
クセでこの難解のクリを具体的に自然現象の例を挙げて説いているのだろう。
だがこの能には難解な語句の中に理解できずとも身体をスッポリ包み込む、
理解を超えた存在“感ずるもの”があるように思われる。
前場の女の出現や、クセの閑寂な描写がそれを助ける。
女が舞う「序ノ舞」も、他の曲と同じ序ノ舞だが全く違う世界を見せているように感ずる。
能には理解できずとも“感ずる”能もあり能の表現形式は多様極まりない。

  能「芭蕉」の詳しい解説はこちら

comment 0
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top