FC2ブログ
04.28
Sat
関東以北にはない早春の花があると聞き谷や崖をよじ登り
這いずり回り探したが目指す花は見つからなかった。
だがJR保津峡駅から亀岡駅まで山道を5時間、
一人歩きは気ままでいい。
休む?河原に降りてみる?ここらでオニギリ食べる?
同意求める人は自分、自分ほど気の合う者はいない。何事も即決。

IMG_5583.jpg
保津川の川下り。2018年3月30日写す。以下同じ

今年の冬は厳しい寒さが続いたが三月中頃から急に暖かくなった。
初夏のような陽気に誘われたのか保津川下りの客は満員だった。
陽気もさることながら、さすが京都観光の目玉の一つだけのことはある。
保津川沿いの山道を5時間かけて歩いた。木陰から船下りがチラホラ見えた。
船から上がる歓声が羨ましかった。
“船下りするの”とメールが来た。
止める“下らない”からと返事したら駄洒落99点と返信があった。
電車で京都に上る、経済的事情と言い訳して置こう。

「五月雨を集めて早し最上川」松尾芭蕉の奥の細道の句だそうだ。
数年前、最上川の船下りをした。川幅も広く保津川のような激流はなく
ゆったりした流れだった。
船頭の最上川舟歌や民謡が心地よくうっとり眠気を誘った。

IMG_5595.jpg
ヤブツバキ(椿)ツバキ科 


見飽きた感のツバキだが、ここの椿は色が濃く黒に近いものがあった。
十数年前、静岡県藤岡の無農薬お茶の栽培農家にお茶摘みの手伝いに行った。
茜タスキと菅の笠を貸してくれと頼んだが断られた。勿論冗談だが。
農家の主人が近くのお寺に珍しい椿があると云うので見に行った。
住職曰く大昔から当寺に伝わるツバキでその名も“黒椿”
日本に一本しかない珍しいツバキだと宣っていた。
椿を見る度に気に掛かっていたが、まさしく保津の椿に間違いないと確信した。
住職にまんまと一杯食わされたと苦笑がでた。

IMG_5594.jpg
ヒメクロモジ?(姫黒文字)クスノキ科

静岡県より西にある木だそうだ。始めて見た。
可愛らしい白い花、クスノキ科共通の清らかないい香りがするという。
同種の高級ツマヨウジのクロモジより少し早く花が咲くそうだ。
屋久島、種子島に大型だがこの木に似たアオモジがある。
土地の人は「火用心の木」と呼ぶ。
三月に花が咲く。三月は山火事が多いからだという。

IMG_5600.jpg
ワラビ(蕨)

シダ類には毒がないと聞いたことがある。
だがワラビやゼンマイなど強烈なアクがあるものがある。
木灰や重曹でアク抜きをする。
アク抜きにはちょっとしたコツがある。
友人たちに自慢タラタラ教える。
ワラビは昔から食べられていたのだろう。
能「小原御幸」では裏山に仏に備える樒を採りに行った
建礼門院と侍女が下山する様子を、
「樒に蕨を折り添えて」と謡う。

能「小原御幸」は壮大な叙事詩といわれる平家物語の巻末に
加えられた灌頂巻を脚色した作品。
能は謡を聞かせ、舞を見せることを主眼にした芸能だが
「小原御幸」には舞は全くないと云っていい異色の能。
謡だけで盛者必滅の理の哀れを歌い上げ感動を呼ぶ名作。
墨染の衣に花帽子、数珠を持った建礼門院のわずかな心象表現が
大きな感動を呼ぶ。

能「小原御幸」は平清盛の娘、安徳天皇の生母、建礼門院徳子の物語。
平家は長門國早鞆の沖の戦い滅亡、建礼門院は入水したが助けられ
都の奥、大原の荒れ寺の寂光院に入り安徳天皇及び平家一門の菩提を弔う
生活に入る。この荒れ寺に法皇が建礼門院を訪ねねぎらう。

IMG_3746.jpg
朧の清水 2016年12月24日写す。以下同じ

建礼門院が大原入りの時、折しものおぼろ月夜に、泉に映った我が姿を見て
身の上を嘆いたという。歌枕となったほどの泉だといわれる。
能「小原御幸」では「芹生の里の細道や。朧の清水月ならで御影や今に残るらん」
と法皇の来訪に感謝し労をねぎらう。
建礼門院が朧の清水に姿を映したというこというはこの能にも
灌頂巻にも見当たらない。

IMG_3755.jpg
寂光院

思ったより小さなお堂だった。
当時はかなりの荒れ寺だったとある。
「一宇の御堂あり、甍破れて霧不断の香を焚き、枢落ちては月
もまた常住の燈下をかかぐ」栄華の生活から一転、この世の地獄に
突き落とされた建礼門院の心情を破れ寺の景色で謡う、能の魅力だ。
少年の頃、父が酒に酔い謡って聞かせた。外国語のように聞こえた。
幼い少年に理解できる筈もないのだが、目をつぶりウットリと謡う
父の姿に何か熱いものが伝わった。
多くの人に膾炙された、これほどの名句だが出典は分からないという。
能「小原御幸」オリジナルだと信じることにしている。

IMG_3762.jpg
建礼門院、庵室迹

「賤が爪木の斧の音、梢の嵐、猿の声。これらの音ならで真さきの葛
青葛、来る人、稀になり果てて」と庵室の景色を謡う。
灌頂巻には「方丈なる御庵室をむすんで一間をば御寝所にしつらい
一間をば仏所に定め」方丈は約3メートル四方だったという。

IMG_3774.jpg

IMG_3770.jpg
阿波内侍の墓と、墓に至る石段。樒は誰が手向けたのだろうかと。

大原での建礼門院の侍女は大納言局、阿波内侍。
法皇が寂光院に到着した時、門院は局と山に仏に備える花摘みに山に入っていた。
阿波内侍の墓への、この道を登ったのかも知れない。
石段などあろう筈もなく道らしき道もない斜面を登ったのだろうか。
「花筐、臂に懸けさせ給うは女院にて渡らせ給う。
爪木に蕨おり添えたるは大納言局なり」二人の帰る姿が尾根に見え内侍がこう謡う。
今は杉やヒノキが植えられ大木となり当時の面影はない。

阿波内侍は今の世でも親しまれている。大原女の姿が阿波内侍の姿を
再現したものだという。眉に唾をして信じることにしている。

能「小原御幸(おはらごこう)」の詳しい解説はこちら

comment 0
コメント
管理者にだけ表示を許可する
 
back-to-top