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04.09
Wed
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全国の道ばた、畑など至る所に。北海道には無いらしい。
前回「イヌノフグリ」を紹介したが、気の毒な名前を押し付けられたのもあれば、この草のように超結構な名前を頂戴した奴もいる。ホトケノザとは仏の座。つまり仏様の台座だ。二十センチほど伸びた茎を扇の形の葉が2枚抱き抱えているようについている。そのうえに筒状の花を数個つける。つまり葉は台座で花が仏様というわけだ。台座には色々な形があるらしいが蓮の台座がお馴染みだ。その蓮の台座によく似ているということだ。
雑草ながら色、形ともに優れものだ。根は浅く簡単に抜ける。農家の人を泣かせることはない。春の七草のホトケノザはコオニタビラコのことで、これではないそうだ。

台座の仏様はあの世のお姿だが、この世にお連れしたのだ。人の魂は死後四十九日の間、前生までの報いが定まって、次の生に生まれ変わるまでこの世にとどまり迷う、中有の闇というのだそうだ。俗には草むらに潜んでいて「草葉の陰から」とよく言うのはこのことらしい。四十九日に盛大に法事をするのは極楽に送るため。

「能」には、あの世とこの世を行き通う人が登場する。中でも涙を誘うのは「野々宮」の六条御息所だ。御息所は源氏物語の中の女性。前皇太子妃、美しく気位の高い女性だ。能「葵上」では嫉妬のあまり生き霊が鬼になって光源氏の正妻、葵上を取り殺す。高貴な女性を自覚しても意識の外の嫉妬が生き霊となったのだ。このことを悟った御息所は源氏を諦め斎宮になった娘と伊勢に下る決意をする。北山、野々宮で潔斎する娘に付きそう御息所を源氏が訪ねる。この想い出は、御息所の執心となってあの世と野々宮を行き通うのだ。人を恋うとは何?考えさせられる能だ。
 舞台の正面に鳥居が置かれる。野々宮の鳥居だ。地謡は「鳥居に出、入る姿は生死の道を神は受けずや思うらんと、また車にうち乗りて、火宅の門を出でぬらん」と謡い、さらに「火宅の門を」と言葉を残す。執心を去ることができたのだろうか?と疑問を残し、御息所の苦しみの深さを謡うのだ。地謡につれて御息所は鳥居の外に片足を出し、又戻し、あの世と、この世に行き通う苦しみの姿を見せる。象徴的に抽象的に、枝葉はそれぞれの観客がつける。能の優れた表現方法だ。
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